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熊本県議会初の女性議員 保田蕾

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008395 更新日:2020年8月1日更新

保田蕾保田 蕾(1904~1995)

地域と女性の地位向上に生きた90年

 明治37年2月5日、山鹿市鹿本町生まれ。町民の教養向上と政治参加を訴え婦人会活動を続け、旧鏡町婦人会会長から郡会長、熊本県婦人連盟理事長に。政界においては、昭和22年から旧鏡町議員、そして昭和26年には県内初の女性の県議会議員となり4年間活躍。(昭和46年に佐藤寿子が当選するまで20年当選無し)例えば、昭和26年12月議会の質問では、未亡人対策、教員の産前産後休暇と補助教員問題等を取り上げている。

熊本県議会初の女性県議員誕生

 「ばんざ~い、ばんざ~い」
 大勢の支持者の歓声と拍手に囲まれ、蕾は興奮と感激に酔いしれました。昭和26年4月、熊本県議会議員選挙。開票がはじまり、蕾の当選が早々と確実になったのです。開票終了の結果、八代選挙区でなんとトップの票を集めた蕾。しかも熊本県で初の女性県議の誕生です。保田蕾、47歳。ひっきりなしに焚かれるカメラのフラッシュのなかで、新聞やラジオの記者の取材攻めにとまどいながらも責任の重さを感じていました。

もどかしくすごした青春時代

 蕾の出自を追ってみましょう。
 生まれは山鹿市鹿本町の来民。あの俳人・宗不旱のふるさとであり、熊本県出身の総理大臣・清浦奎吾の出身地でもあります。山鹿と菊池の往還筋に当たり、古い町並みがいまも残されている歴史のある町です。
 明治37年(1904)、蕾はその来民の畳職人の長女として生まれました。蕾を含めて妹たち四人、それと弟が一人の、五人兄弟姉妹でした。日清戦争に勝って極東の風雲急を告げる時代でしたが、時代の風は鹿本地方まではおよばず、来民の町はおっとりとした雰囲気に包まれていました。町は、京都、香川県の丸亀とともにうちわの産地として有名で、伝統の来民うちわの生産者が40軒近くもあった時代です。
 あわせて、鹿本は文化的教育的な気風が濃い町です。総理大臣になる前の清浦奎吾が町に寄付した清浦文庫(明治41年設立)に、おかっぱの幼い蕾の姿がよく見かけられました。
 とにかく、勉強がよくでき、かわいく、そして利発な少女像が浮かびます。弟が東京帝国大学を、妹が女子高等師範学校を出ていることからも、彼女の家庭が教育熱心だったことがわかります。
 幼いころ、竹竿にさして干された渋うちわの林の影でかくれんぼをしながら育った蕾。彼女の成長のようすは、その学歴からもうかがい知れます。家業が安定していて比較的家計に余裕があった両親は、子どもたちの教育にも積極的で、勉強が大好きという蕾の希望を受け入れ、鹿本郡内の女子教育で最高峰といわれる山鹿高等女学校から、さらに熊本女子高等師範学校へと進学させました。卒業後、蕾は6年間鹿本郡の稲田尋常高等小学校の先生として教壇に立ち、子どもたちから慕われます。
しかし彼女の向学心、向上心は、もっと大きく膨らんでいきます。
 「大正から昭和へと年号も変わり、日本は新しい時代を迎えたというのに、このままでは私は鹿本の町しか知らずに終わってしまう。もっとちがった世界を見てみたい」
 悩んだ末に教職を辞した蕾は、東京共立女子専門学校(現・共立女子大学)に入学。男ならともかく、普通の家に育った娘が勉学のために東京に行くことなどたいへん珍しかった時代。「あの蕾ちゃんなら、いつか立身出世して、えらか人になるじゃろう」。鹿本の人々は、蕾のことをそう噂しあい、彼女の将来を大いに期待したのです。
 初めての、大都会での暮らし。見るもの聞くものすべてが新鮮で、蕾の目にまぶしく映りました。省線電車、地下鉄、浅草花見世、丸ビル…。なかでも蕾の胸にいちばん響いたのが、蕾の同級生たちから感じられる、「女性としての意識」でした。女だからと卑下したりせず、自分の意見を持ち、堂々と自己を主張する人がなんと多いことか…。同級生の大半が東京の親元から通ういわゆる「江戸っ子」で、その歯切れのいいしゃべり方とともに、彼女たちの考え方に、蕾は大きな影響を受けることになります。東京神田一ツ橋で学んだ3年間。それは彼女の意識に大きな変化をもたらす期間だったのです。
 卒業後、母校・東京共立女子専門学校でしばらく助手を務めた蕾。そして昭和7年(1932)、熊本に帰り、松橋高等女学校で教壇に立つことになりました。しかし、それは蕾の望んだ世界ではまだまだありません。依然としてほど遠い、夢の実現。しかも、その夢とはなんなのかさえ、蕾はつかみあぐねていたのです。

清浦奎吾

嘉永3年(1850)~昭和17年(1942)。現山鹿市鹿本町出身の内閣総理大臣。大正13年、75歳で組閣したが半年で総辞職。昭和3年伯爵に叙され、のち大勳位を追贈。

「花」も「嵐」も待っていた結婚生活

 30歳になった昭和9年、彼女の運命は大きな岐路を迎えます。八代市鏡町で代々医家を受け継ぎ名門と呼ばれていた保田家の当主に見初められたのです。2人は鏡町の人々に祝福されて結婚。18歳年上の夫・元雄は、医学研究の分野でも「鏡熱」の発見者として学会に名をなした人で、やがて八代郡医師会の副会長、さらに会長へと地位を高めていきました。
 ここで夫の保田元雄にふれましょう。
 「おれは坂田道男(元国会議員)と同級バイ。あいつよりおれの方が成績は上じゃった」と、口癖のようにいつも自慢げに語っていた元雄。保田家は「一門医家を張り、鏡町一帯に照り栄えて名だたる名門、夫君(旧鏡町長)の徳望とともに仰がれてきた長い家柄」(村上菊枝編『熊本婦人のプロフィール』)でした。
 「元雄は家庭を大事にする人でした。子宝には恵まれませんでしたが、鏡のために二人とも一生懸命につくし、子どもをつくるようなヒマはなかったとでしょう(笑)…」(甥の保田周一さん)。
 そんな夫が旧鏡町の町長になったのは、戦火がいよいよ激しくなった昭和18年のこと。人情に厚く人のために骨身を惜しまない性格で、特に青年や婦人の教育や産業の振興に力を注いだ元雄。町の人々に住民の気持ちがわかる町長として慕われていたのです。
 蕾も、町長の妻として町の女性たちからさまざまな相談を持ちかけられ、親身に応対するうちに、政治という世界に少しずつ興味を抱くようになっていきました。やがて終戦。窮乏生活に多大な我慢を強いられていた町民たちの間に「ホッ」と安堵の風が流れるのを、自分たちのことのように喜んだ保田町長夫妻。しかしその直後、夫妻に突然の逆風が襲いかかります。
 「えっ、公職追放! あんたが?」
蕾は開いた口がふさがりません。夫が戦時中の苦しい町民の生活を思い、自分を捨て、身を粉にする思いで尽力してきたことを、いちばんよく知っていたのは蕾だったからです。そんな夫から町長の職を取りあげるという政府からの通達が…。昭和21年のことでした。

公職追放

公共性のある職務に特定の人物が従うことを禁止すること。戦後の民主化政策の一つとして、昭和21年Ghqの覚書にもとづき、議員・公務員その他の政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを追放した。昭和27年4月対日講和条約発効とともに自然消滅。

逆境が彼女を目覚めさせる

 「自分がしっかりせにゃいかん。私はいままでなにをしてきただろう。親にはいい学校に行かせてもらった。先生になったときも、ふつうならそれで人生の成功者になったと喜ぶべきだったのに、もっと違う世界を見たいとわがままを言って辞めて東京に行った。でも、そこから先は、私が望んだ人生だっただろうか。恵まれた家庭に嫁ぎ、ぬるま湯のような生活に浸ってきただけ。私がやりたかったことを、いま見つけるときだと思う」
 そう思いつづけてきた蕾にとって、夫の公職追放は青天の霹靂でもありましたが、人生を生きるヒントにもなったのです。
 「よーし、あんたに公民権がなかとなら、私がかわりに選挙に出ようか」半分は冗談、半分は気落ちしている夫を励ます蕾の言葉でした。
 「ほう、お前が? そりゃ当選してくれたらうれしかばってん、婦人会長と議員はちがうぞ」
 「いままでだって、あんたの片腕になっていろいろやってきとるでしょうが。わからんことは、あんたに聞いて習うけん」
 「それなら、おれがお前を政治家として徹底的に鍛えてやるか」
 まるでひょうたんから駒のような話ですが、蕾は町会議員に立候補、初めての選挙戦がはじまります。選挙といえば、なにしろ当時のこと、お酒と寄り合い。毎晩のように、いや、昼間からもたくさんの人が出入りし、食事、酒宴のお祭り騒ぎ。いまではとても想像のつかない世界の渦に巻きこまれます。
 それは昭和22年。「町長の妻」時代から町の女性たちの尊敬と信頼を集め、旧鏡町の婦人会長を務めていた蕾ですから、みごと初当選。それが彼女の強い意志とがんばりの賜物であったことは否定できませんが、それ以上にその原動力となったのは、公職追放となり町長を失職した夫の無念さ、そしてかわりに妻を政治家に仕立てようという強い意志に押された夫の教育にあったのでしょう。蕾もまた、夫の薫陶のもと、世の中の仕組みや政治の世界、かけひきなどをよく学び、それらを通じて女性がかかえる問題点に気づくようになっていきます。
 「自分がやらなければ」そう決めたときから、蕾は家庭から表に出て、社会活動に邁進するようになったのです。
 蕾の社会活動は、それだけにとどまりませんでした。町議に当選した翌年には、八代郡婦人会会長。そして昭和25年から、熊本県婦人連盟理事長。そういった肩書きを歴任するにつれ、彼女の意識は変わっていきます。もう、彼女の頭には、名誉欲や金銭欲はありません。「これこそ私がやりたかったこと。これこそ私がやるべきだったこと」使命感に目覚めた蕾は、家庭内や社会での女性の地位向上のために全精力を傾ける、真の活動家になっていったのです。

県議として女性の地位向上に尽くす

 熊本県初の女性県議会議員・保田蕾。それは八代郡内の女性同志たちだけの支持で誕生したわけではありません。選挙区内で最高得票を得たことからも、男女を問わず多くの人々から高い支持を得ていたことがわかります。いわゆる、カリスマ政治家。当時の彼女を知る人たちが語る「保田蕾」像です。
 「話し好きな人で、話術もうまかった。汽車で乗りあわせた知らない人とも、話しだしたら終点まで乗って話しよったほどです」
 「よく老人ホームを慰問しては、歌ったり踊ったりと自分の方が楽しんでいた。得意な歌は『365歩のマーチ』や『影を慕いて』だったですね」
 そして、
 「近所のおばさんたちと話すときは、下ねたの冗談で笑わすことが多かった。みんなが親近感を持ってました」と、意外にひょうきんな一面も。県会議員像としては、かなり異色ではないでしょうか。
 人一倍の社会性をもち政治に情熱を傾けた一面とあわせもつ、彼女の無邪気さ、かわいらしさが浮かびあがります。そんなアンバランスな魅力こそが、男尊女卑の風潮がまだまだ残っていた時代であったにもかかわらず、八代内の多くの人たちの心を惹きつけ、熱心な支持を集めたと思われます。
 しかし、県議会の質問では、そんな人間くささを振り捨てて、教員の産前産後休暇問題や、補助教員問題、未亡人対策など、一貫して女性と教育関連の事項をきびしく取りあげた蕾。熊本県初の女性議員ならではの、それまでになかった視点からの議論を、声高に、熱く、議会にぶつけました。
 「現在、日本婦人のなかで、最も低い生活をして、最も崇高な職責を果たしている職業は、教職員であると結論いたします」
 「戦争未亡人や未帰還者の婦人の生活の苦しさは、ときに犯罪を招くこともあります。文化国家建設のために急ぐべきは、社会保障制度であります」
 「最近、就職の際に未亡人子弟が不採用になるという話を聞きますが、その真相を調べ、早急に善処することを要求します」
 自らの教育者としての経験と婦人会活動の経歴を生かした、面目躍如の活躍でした。特に、福祉についての積極的発言はまだ少なかった時代。彼女の発言は先見的で注目を集めましたが、それが現在の福祉の充実に大きく役立っていることを思えば、彼女の果たした役割がいかに貴重なものだったかがわかります。

保田蕾は昭和28年12月の定例県議会で

文化国家建設に急ぐべきは社会保障制度であると前置きし、戦災者の窮乏、引揚者の苦しみ、戦争未亡人、未帰還者婦人などの生活の苦しさを述べ、その施策の遂行が怠慢である。一日も早からんことを‥‥(後略)と意見を述べた。

宮中園遊会に招かれる

 公職追放が解け、昭和30年に夫・元雄が旧鏡町町長に返り咲くと、県議を退いた蕾のそれからの人生は順風満帆。熊本県婦人連盟理事長に復帰し、社会福祉の分野で大活躍します。昭和33年にはその活動で県知事表彰も受けました。あわせて、書道や詩吟、読書など、趣味も多彩になっていきます。海外旅行も好きで、ヨーロッパから帽子をたくさん買って帰り、とっかえひっかえおしゃれを楽しんだということです。その間、昭和37年4月から昭和54年3月までの17年間、熊本県母子福祉協議会理事長(第三代)としての要職にありました。
 昭和43年には、宮中園遊会に招待される栄に浴したことはその功績に対してのものでした。

昭和43年11月8日宮中園遊会に 出席したときの正装の保田蕾理事長の画像
昭和43年11月8日宮中園遊会に
出席したときの正装の保田蕾理事長

 理事長としての17年間を、蕾はこう回顧しています。
 「『我が幸は我が手で』のスローガンの下、全国未亡人団体と呼応して、組織づくりに、制度の改革に努力してまいりました。昭和三十八年、財団法人熊本県未亡人協議会と改称、県下各地を遊説した思い出はつきません」と。また、県福祉部長からの感謝状は次のように語っています。「貴殿は昭和三十七年県未亡人団体就任以来、今日まで十七年間と永きに亘り、恵まれない母子家庭の福祉向上のため御尽力いただき、また母子団体育成指導にも大いなる功績を残されました。」

平穏に幸せに、晩年を過ごす

生来の子ども好きもあって、また、近所の働くお母さんのためを思い、晩年は自宅の庭に託児所を開設します。さらに昭和55年(1980)には、熊本市に「あゆみ保育園」を開園。理事長として、かわいい子どもたちに囲まれる生活を送ったのです。その平安は、夢を模索しつづけ、もがきながらもそれにたどりつき実現させた蕾へ、神さまからの贈りものだったのかもしれません。

保田周一さん
保田周一さん(蕾夫妻の旧居跡で)八代市鏡町の中心部にあった蕾の住宅跡には、もう屋敷は解けてなかった。晩年、一人暮らしになった蕾は、すぐ近くの周一さん宅に「ご飯を食べ」に行っていた。

 八代市鏡町の中心部にある、保田医院。
 蕾の夫・元雄の甥の周一さん夫妻を中心に、元雄の弟(止郎)の妻・喜和子さんが住んでいます。周一さんは保田家の医者として四代目に当たります。
 喜和子さんは、義姉の蕾をこう語ります。
 「鹿本の出身なのに、気質は鏡の人でしたね。太っ腹で、人好きで、あけっぴろげ。地域の人たちから『八代の松濱軒にも負けん』といわれたほどの立派な庭の手入れに、わざわざ熊本から職人を呼んで、酒つき、料理つきでもてなしていた」という。
 四代目当主である甥の周一さんと、「松濱軒」のように手入れが行き届いていたという屋敷跡の庭に行ってみました。
 まっ平らな干拓地の八代市鏡町。保田家の和風の趣き深い庭内は異彩を放っていました。その屋敷はかつて、世界の図書が並び、月刊誌の「世界」「文藝春秋」「婦人公論」などがいつも取り寄せられ、ちょっとしたライブラリーでした。喜和子さんは言います。「なにしろ、当時のお金で月に3~4千円ぐらい、本代に使っていました」
 図書館のような貴重な本の山は、のちに町に寄贈されています。
 「家屋は、幾度かの台風で、とうとうダメになってしまいました」残念そうな周一さんの言葉通り、いま、屋敷内は庭のみを残して屋敷を囲む塀もありませんでした。真直な生き方を貫いた蕾夫婦の生きざまを物語っていた。いかにも手入れが行き届いていたことが偲ばれる庭。広い泉水には、鯉も悠々と泳いでいたことでしょう。
 「泥棒にも入られて、一切合切盗まれました。写真のアルバム、勲五等瑞宝章受章の写真までも。いったいなににするんでしょうね(笑)」。「お宝鑑定」の時代、目のある(?)泥棒は蕾のメモリアルグッズまで根こそぎもっていったようです。

勲五等端宝章の勲章の画像
勲五等瑞宝章の勲章

 かろうじて周一さんの手元に残った一葉の写真があります。それは蕾の肖像でした。ふっくらとした温容。暖かみのある、人のいい、鏡の女性といった感じの普段着姿の蕾がいました。
 「おしゃれな人でした。洋式の鏡台に向かって、着飾って腰掛けていました。ヨーロッパのおみやげに帽子をたくさん買ってきて、帽子専用の家具までそろえたほどです」
 まるでいまそこにあるかのように、屋敷跡に視線を送りながら昔をしのぶ周一さん。「私たちへのおみやげはフランス人形でした」

 もう一度、屋敷跡の庭を眺めてみました。緑の茂みのなかに、ゆっくり歩を運ぶ蕾さんの姿がありました。八代市鏡町の空は、春の色を告げています。ひ孫である小さな紘一郎くんと、庭で踊る蕾さんがいました。子ども好きの蕾は、ここで託児所を開いて、小さな子どもたちに囲まれて華やいでいたのです。
 夫の元雄とともに、ここで真直な一生を貫いた保田蕾。それを現わすように、広い敷地のなかに豊かな木々の茂みがあり、池の水はおりからの春の風にも揺らぐことなく静まりかえっています。
 明治から昭和へ。日本が大きく揺れ動いた時代をまじめに生きた一人の女性の、ケレンみのない余生をその庭に見た思いでした。
 平成7年(1995)、死去。91歳の大往生でした。あり余る才能と大きい夢のゆえに、行く末に迷った若いころ。ただ流されてきた人生に疑問を感じ、女性問題と政治活動に打ちこもうと決めた中年時代。そして功成り名を遂げ、人生を楽しく、かわいく、やさしく生きた晩年。保田蕾ほど、多感に、そして幸せに明治、大正、昭和、平成の4時代を生きた女性は、たぶん多くはいなかったでしょう。
 熊本市武蔵ケ丘にある、あゆみ保育園。園児たちのかわいい歓声がときおり響きます。若いお母さんたちや保育士たちの笑顔もみられます。どこといって変わったところもない、日常的な光景ですが、ここに保田蕾の福祉と教育、そして愛の精神が、彼女の没後も脈々と流れているのです。


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