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杉谷つも(1887~1946)
明治20年、八代市泉町栗木村生まれ。郡築農民組合の執行委員に選ばれ活躍し、大正13年には、日本農民組合婦人部委員に。郡築小作争議では、婦人の運動参加を主張するなど、女性運動史上でも先駆的役割を果たした。
争議終了後は、八代町で小料理屋を開き、後に「満州国」(中国東北部)へ移住。59歳の時にハルピンで逝去。
杉谷つもが八代町(当時)の西側に新しくつくられた干拓地・郡築村への入植を考えはじめたのは、夫・新造と結婚したばかりの明治40年、20歳のときでした。つもが生まれ育ったのは山深い八代郡栗木村(現・八代市泉町栗木)。
急峻で畑づくりや田づくりもままならない窮屈な地形と、見上げれば八方に山々がせまった日暮れの早い小さな空に、つもは息詰まる思いをずっと抱いていたのです。
「もっと広々とした世界で、思いきり体も気持ちも伸ばした暮らしがしたい」
そんなつもには「干拓地」という言葉は楽園の響きでした。斜面にへばりついた猫の額のような段々に重なった棚田に比べて、大きく広がる一面の大地で働ける。広大な土地と空を自分のものとして暮らすことのできる、この世の楽園を意味しているように思えたのです。そして、栗木村での貧しい暮らしにくらべ、干拓地では自分たちの力だけで未来を切り開いていけそうな、明るい予感がありました。
県も郡も入植を薦めています。八代郡がつくった新しい田圃です。
準備が整った明治42年、夫婦は住み慣れたふるさとを離れ、新しい暮らしへの不安と、それを上回る大きな希望に胸をふくらませて郡築村に入植。若い2人にとって、この村は自分たちの夢を思う存分に描かせてくれる、まっさらなキャンバスになる地だったはずでした。ところが、2人の夢は無惨にも打ち砕かれることになるのです。
「栗木村をなぜ、離村したのか、当時の山村での暮らしがどうだったのか、社会、経済状況をみると、産業資本が作り出す商品が、山村にも浸透してくるまさに商品経済にまきこまれていく時期であったといえる。商品経済の浸透は、生活に現金収入の増加を要求した。また従来、栗木村は畑作物の栗、麻、綿、そして木炭などが多かったが、輸入綿花の関税撤廃、葉煙専売制の実施、自家用酒醸造の禁止、自家用しょう油の課税などにより、従来農民が自給していた必需品を掠奪していった。
また、日露戦争が三七年に勃発し、人命と経済的に莫大な影響を与えた。
一方、地主制の確立期でもあった。熊本県は五〇町歩以上の大地主が全国で七番目に多く、特に、八代郡では水田の六三%(明治三〇年)にも及んでいた。
このように、杉谷新造・つも夫婦が栗木村を後にし、郡築干拓に入植した時期は、まさに、資本主義と地主制が確立していく時代でもあった。」と内田敬介(「郡築小作争議と杉谷つも」『大正デモクラシーの体制変動と対抗』、熊本近代史研究会、1996年)は述べています。
八代郡郡築村(現八代市郡築)で大正末から昭和初年にわたって起きた小作争議。郡築村は八代郡が八代町、松高村、八千把村沖の海面を干拓して築造した土地で、明治三七年(一九〇四)に潮止め工事が完成した。入植者は小作である。群制の廃止に伴い公益事業組合が設立され、法人「地主」となった。大正一二~一三年(一九二三~一九二四)の争議は日本農民組合(日農)の指導の下に闘われた。((1)小作料の五割減額(2)大正十三年から向こう五年間の小作料全免(3)農民に七割の部分権を認めよー)の三項目の要求で闘われ、公益組合、官憲の激しい弾圧や切り崩しがあったが、小作側には県下の労働者や学生(五高社研)、水平社などが支援、共闘した。
結局、向こう五年間の小作料実質四割減、などの協定で妥結。暫定的な小作料四割減免期間が切れた昭和五年(一九三〇)は郡築小作人組合が結成され、(1)小作料の永久四割減(2)開墾権(部分権)の七割承認ーの要求を揚げて争議に突入した。「公益組合側は差し押さえで対抗するなど激しく対立したが、六年一月一五日、小作料の永久三割減、年額一万五〇〇〇円の奨励金の支給などの諸条項で妥結。」
郡築争議は戦前の県下最大の小作争議であっただけでなく、日農・全農指導の全国的注目を浴びた闘争であり、県下の労働者、学生など民主諸団体との共闘、社会主義諸勢力の影響を強く受けた農民闘争であった。しかし、郡築農民の生活と権利が真に向上し、地主支配の頸木から解放されるには戦後の農地改革を待たねばならなかった。〈上田穣一 熊本百科辞典〉
そこは干拓地というのは名ばかり、できあがっていたのは海と陸との境となる堤防だけ。堤防の内側はただの干潟で、一面カキ殻におおわれ、耕土も入っていなければ灌漑設備もありません。
「カキといわれても、私たちは木になっとる柿の実しか知らん。海のカキなんか、見たことも食べたこともなか」うっかりはだしで表に出ようものなら足の裏をざっくりと傷つけてしまう一面のカキ殻に、つい気持ちがくじけてしまう、わらじも藁ではなく針金で編まねばならないほどでした。そんな彼女たち夫婦に、水田や畑を自己負担かつ手作業でつくりあげていくという想像を絶する過酷な労働が待ち受けていたのです。
それでも夫婦は気力を奮い起こし、まず家をつくります。粗末な掘っ建て小屋。わらぶき屋根に泥の壁。すでに入植していたほかの村民たちの住まいも、ほとんど似たようなものでした。
「栗木の家のほうがまだましだったかもしれんね。近くに谷川の水もあったばってん、ここは井戸から掘らんといかん——」
力なく笑うつもを夫の新造は励まします。
「ばかなことを言うな。おれたちの地主は八代郡たい。お上である八代郡が、郡民に理不尽なことをするはずがなかろうが」
しかし、新造に限らず八代郡を信じて入植してきた村民たちは、次々と下される郡からの指示にしだいに声を失っていくのです。
まず、当初約束の「新地百姓三年無徳(税)」が無視されました。村民が郡に払わなければならない小作料。八代郡内の入植地の小作料が平均5割であるのに対し、ここ郡築では5割7分が課せられていました。当時、この地は土壌が悪いため一反当たりの収穫量は2~3俵(ほかの八代郡の入植地の平均収穫量は3~5俵)と少なく、小作料を払ったうえに大量に必要とされる肥料を購入すれば、村民のもとにはいくばくの金も残らないのが現実。そして、この法外な小作料を、まだ田や畑もできあがっていない入植一年目から納めろというのが郡の指示だったのです。郡は郡築を造るときの借金を返さねばならないというのがその理由でした。
八代郡 | 郡築村 | |
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2石4斗2升1号/反 1石2斗3升/反 50% |
1石6斗/反 9斗/反 57% |
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13円/反 |
15円50銭 |
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31円60銭 94% |
34円52銭 28% |
「郡築小作争議と杉谷つも」(内田敬介氏 275頁から)
夏は強烈な日射しにさらされて肌を灼きながら、冬は海風に吹かれてあかぎれをつくりながら、懸命に働く新造とつもですが、次々と5人の子ども(4女一男、うち次女は幼くして夭折)が生まれ、働いても働いても暮らし向きはいっこうに向上しません。
「ほんとうにやっていけるとだろうか」
入植から6年、そう不安を漏らすつもに、4人の女児のあとにやっと長男を得たばかりの新造は笑ってこう言います。
「跡取り息子を授かったということは、おれたちの人生、悪かことばかりじゃなかということ。死にものぐるいでがんばりよったら、いつかいいときも巡ってくるだろう」
つもと違って楽天的な考えをもつ新造の言葉に、つもの気持ちもいくらか和らぎます。
「20年後、30年後のわが家はどうなっとるだろうね。娘たちはよかところに嫁に行っとるだろうか」
心のなかで家族の夢をふくらませるつもでした。
ところが、その直後に待っていたのは、思いがけない夫の急死だったのです。なんの覚悟もできていないまま、わずか28歳のつもは4人の子どもをかかえ母親一人の腕で生計を立てていかなければならなくなります。
郡築の村民たちも、地主である郡の無茶苦茶ともいえる小作料の取り立てにただ黙っていたわけではありません。小作条件の軽減を何度も郡に訴えます。しかし、要求は「借金返済」のため、仕方ないということでいつも受け入れられないまま。
「ムシロ旗ば立てて押し寄せる昔の百姓一揆んごたぁ、せん」最初、そう言っていた村民たちは、日本農民組合にすすめられた組織を結成しての団結運動の必要性をしだいに実感しはじめるようになるのです。
大正12年、村民たちは日本農民組合に加盟、郡築支部を結成します。村内の女性では、500人以上が集まりました。杉谷つももその一人でした。ついに村民たちは本格的な争議を開始しました。そして、この活動を応援する組織も次々と登場します。九州を中心に活動していた水平社をはじめ、東京大学、そして五高、七高、三高などの進歩派学生たちが、村民たちの応援に立ちあがったのです。
郡役所に要求書を提出します。これに対して地主側である郡は強圧的な行動に出ます。土地明け渡し請求訴訟、小作料支払い命令を出してきました。
この活動は、郡築小作争議として全国の注目を浴びることになりました。注目の理由は、ひとつは地主側と小作農民側との全面的な対立という特殊な構図であったこと。そしてもうひとつは、女性たちがそのなかで重要な役割を演じた争議であったことでした。
入植当時、なにかと気持ちがくじけがちで、かなわない離村のことを何度も考えては思い悩んでいたつも。それから14年がたち、過酷な境遇と貧困、そして生きるために経験したありとあらゆる辛酸は、36歳になったつもを強い女性に育てあげていました。女手ひとつで5人家族を支えながら、日々の仕事、交渉ごと、そして村内のもめごとの解決などのために髪をふり乱して走り回るつも。そこに、日本農民組合郡築支部の執行委員というもうひとつの顔が加わります。
日本全国の被差別部落の差別の撤廃・解放をめざして、大正11年(1922)京都で創立された大衆の連合組織。全国水平社の名で闘争を進め、第二次世界大戦後昭和21年(1946)部落解放全国委員会がその伝統を受け継いで結成。のち部落解放同盟と改称された。
日本国語大辞典(小学館刊」)
※明治42年(1909)年から昭和10年(1935)年の間に離村したのは80%
※欠席児童、一ケ月全部休む~462人中51人(11%)
※自分の娘を身売りして小作料を収めた農民が何人もいた
彼女の活動ぶりは、「豪胆」のひとことに尽きました。「男には任せておけぬ」と颯爽と自転車に乗り動き廻るつもは、熱烈に彼女を支持する郡築の女性たちを引き連れ、人海戦術で相手を圧倒するのです。まさに「女親分」です。郡役所との直接交渉のときは400人を動員。つもをはじめとする6代表が郡長に会見を申し入れると、恐れをなした郡長は代理の職員に応対させたというエピソードが残されているほどてす。
つもは必死でした。農民組合講話会では「婦人も処女も一斉に起こって老い先短い老人のため、行き先永き子孫のため死を決して地主に願わねばなりません」ただひたすら、子や孫の時代を願って訴えました。
女性たち100人で行った八代町でのデモ行進は熊本県警や熊本憲兵隊が出動する騒ぎとなり、各地の新聞に大々的に報道されたため、郡築の争議と杉谷つもの存在は一躍世に知られることとなりました。
こんなエピソードがあります。ある時、村の用水路掃除の時、若い青年が泥水の用水路へ入るのをためらっていた。つもは、「なんばしよる、そんでん男か」、と泥水の用水路に飛び込んだ。彼女は腰巻きをまくりあげた姿だった。「なりふりかまわず、男より強か」つもの伝説が生まれた。
そんなつもですが、繊細で心やさしい一面をのぞかせることもありました。郡立の女学校を参観したときのこと。「私たち小作農民が娘を身売りまでさせて納めたお金でこの学校が運営されていると思えば、胸が痛くて言葉も出ません。あなた方も教育者なら、まず私たちの娘を泥の溝から救ってください」それは強い女の仮面の下に隠された、ひとりの母親としての心の声だったに違いありません。
その年の5月、日本農民組合長の杉山元次郎、10月には社会運動家の賀川豊彦が郡築を訪れ、農民の人権確立の大切さを説きました。このとき、つもは大きな感銘を受けます。農業を一段と低いものにとらえていた農民たちに、賀川豊彦はこう言ったのです。
以下「郡築百年史」から
大正13年3月1日、大阪天王寺公会堂で日本農民組合第3回の代議員として出席した「杉谷つも」の演説
土地立入禁止の公示札と土地
(大正14年4月)
「土は命を生み、育み、すべてのものを浄化する大切な存在だ。だから、土くさい人間ほどえらい」
それまで、郡との条件闘争だけを自分たちの農民運動ととらえていたつもは、農民の人間としての生き方の啓発に重要性を見い出すようになったのです。
大正13年2月、大阪天王寺で行われた第3回日本農民組合は全国規模のものでした。農民歌「農に生まれて農に生き、土地に親しみ土地に死す‥‥」の大合唱で始まりました。つもは、3000人の聴衆を前に、農民がいかに苦しめられているか、いかに差別を受けて人間らしい生き方を許されていないかを涙ながらに切々と訴えました。
「今日は女性は、我々以外いないが、次回は半分は女性にしょうじゃないか」
大阪毎日新聞は次のように報じた。
「熊本県の八代郡郡築から遥々上京してきた杉谷いそ(38)は冷飯草履を突っかけて壇上に現れ『おはぐろ』をつけた歯を食ひしばり乍ら区切り区切り悲痛な叫びを挙げる。
『私ども郡有地を耕してゐます。その小作米で女学校が建ってゐます。けれども私どもの娘は金と閑がないので女学校へ入れて貰へません。それどころか私ども小作人の娘は小作料が払えぬばかりに娼妓や淫売に売られました。地主の子供も小作人の子供も生まれた時は同じ赤子ですのに、なんという違ひでせう』と果ては號泣せん許りに声張りあぐれば『官憲よ、この正義の叫びを聞け』と大向が弥次る」
この場面は「橋のない川」(住井すゑ著)の中で「杉岡いそ」として登場しています。
杉谷つもは大阪での大会参加の後、東京まで足を伸ばして、芝の協調会館など各所で演説会に出て、労働者や市民、知識層に郡築の実情と真相を訴えて回った。
当時特派記者である関口泰は、署名入りで、杉谷つもの印象記を「朝日新聞」(大正一三年四月一〇日)につぎのように書いている。
子どもの教育問題で血の出る思ひをするのは母親である。農民大会の演説会に郡築の女代議員の悲痛な叫びは当然比処に及んだ。夫を失った彼女は三十八才の身で四人の子供を育ててゆく。ある限りの力を耕作で、母子五人は辛うじて生命をつないでゆくことだけは出来るが、子供に教育を与える余裕はどうしても出来ない。無論小学校教育である。……(中略)かくして小作人の境涯より浮かび上らせ力を与える、この教育さへも受けられない、此処に永久的な小作人世襲の貧民が出来てゆくのである。……娘を売った金が小作料として郡に納められ、郡立女学校の建築費の一部をなしてゐる。小作人の娘は人柱となって礎石に埋ってゐる。そして、彼女等の娘にはその女学校の教育は拒まれて居る。『地主の産ました子ども、小作人の産ました子供でも産まれた時は真裸か』と彼女は熱涙と共に血を吐く様に吐き出した。彼女はこの子供に勉強して偉くなれ、此の悲惨な境遇からぬけ出してくれとも云えず、このままでは最愛の子どもの将来迄も暗黒と思って、ゐても立ってもゐられないと云うのである。彼女は女の身を以って必死の運動に入ったのだ。そして団結の力の外、自己の力の外、此の境遇から脱け出す方法が無い事を悟ったのである。……(略)」
また、関東でのある会場でのエピソードが残っている。一万人ぐらいが集まっており、あまりにも騒しかったので演説の初めに「わたしは義民佐倉宗吾が生れた熊本県の五家荘から来た杉谷つもです。正義のために闘います。……」とやって静めたという。関東農民にとって神さま的存在の佐倉宗吾を引き合いに出した。とっさに考えついたのであろう。聴衆を引きつける才能の持主であったといえる。そんなつもたちの渾身の活動にもかかわらず、その年の秋、1年半におよんだ郡築小作争議は、地主側に有利な裁定を得て終結を迎えます。小作争議は、土地立ち入り禁止の仮処分が断行され、村民の敗北に終わりました。そして農民組合も強制解散。深い疲労感と落胆に沈む村民たちでしたが、その心に植えつけられた人権意識の火まで消えることはありませんでした。翌大正14年、村民たちは郡を相手に再び立ちあがります。
小作争議結着。しかし、第二次郡築小作争議と呼ばれたこの運動に、もはや杉谷つもの姿はありませんでした。昭和2年、40歳になっていたつもは郡築を出て、八代町塩屋に小料理屋を開いています。生まれて以来農業ひとすじに生きてきたつもが、なぜ小料理屋という商売に生きる道を選んだのか、そしてその商売はうまくいったのか、いまとなっては知ることができません。
日本社会運動の草分け的存在。明治21年生まれ。キリスト教、哲学、心理学などを学び、自ら神戸のスラム街に移り住み社会的弱者の救済活動をする。昭和20年には「日本協同組合同盟」を結成して、生活協同組合などの組織を生み出す基礎をつくる。世界的な平和運動家。昭和初期には反戦を唱え、戦後は一貫して戦争反対や核兵器廃絶運動を行い、ノーベル平和賞の候補にもなった。
熊本 | 福岡 | 全国 | |
---|---|---|---|
大正9年 10 11 12 13 14 昭和元年 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 |
3件 16件 107件 45件 21件 13件 11件 4件 2件 4件 10件 4件 4件 1件 19件 41件 48件 |
14件 22件 55件 115件 81件 227件 116件 125件 75件 88件 126件 169件 192件 193件 234件 243件 207件 |
408件 1,680件 1,578件 1,917件 1,532件 2,206件 2,751件 2,052件 1,866件 2,434件 2,478件 3,419件 3,414件 4,000件 5,828件 6,824件 6,804件 |
「郡築小作争議と杉谷つも」(内田敬介氏 282頁)
そしてその4年後、44歳のつもは意外な行動を起こします。三女百枝さんと共に「満州」に渡ったのです。
まず、「満州国」(中国東北部)新京へ行きました。極東に戦雲が重く立ちこめる昭和12年、つもはハルピンへとさらに移り住みます。そして日本が敗戦を迎えた翌年の昭和21年、ハルピン在住のまま59歳で死去。村を離れて以来一度も郡築や農民運動にかかわることはなかった杉谷つもですが、亡くなる直前の彼女のこんな言葉が残されていました。
「国に帰って、もう一度杉山先生や賀川先生と農民運動をやりたい…」
熊本の農民運動、労働運動、そして人権運動に多大な足跡を残して、いつの間にか姿を消した女性、杉谷つも。彼女にとってわずか1年半に過ぎなかった運動体験は、その後も一生、彼女の心のなかに大きな比重を占めていたようです。
「杉谷つも…? いやぁ、聞いたことないですねぇ」
八代市郡築六番町に建つ郡築神社で見かけたイ草農家の若いお母さんたちは、屈託のない表情で声をそろえてそう言いました。その神社の鳥居には、郡築争議のもようが記された碑が、いまも残されています。
あの時代から半世紀が過ぎようとしている。郡築干拓地は豊かな稔りの中にある。
緑のイ草の季節には幾本もの鯉のぼりがはためいている。つもが願った大きな空に、子どもたちに祝ってやれなかったのぼり旗が空に浮ぶ。
それが、つもをはじめ先駆者が闘いとった稔りの証であることを知る人も少なくなってしまった。
私たちが、杉谷つもから学ぶこと、それは彼女がいつも言っていた「前向きに生きること」、「ともに生きること」、それと「差別を見抜き、女性の運動参画を」である。
郡築神社
平成16年、明治37年郡築新地造成の汐止めから百年を迎えた。その記念に発刊された『郡築百年史』では6頁にも及んで杉谷つもの活躍が綴られている。
その最後はこう結ばれている。
「‥‥こんな生き方をした女性、しかも土を耕し、作物といういのちを育む郡築農民の中にいたことを誇りにし、語りつぐ必要がある」
本編の編集に当たりましては内田敬介氏(現・Ja熊本中央会。美里町在住)の指導とご助言を頂きました。
また内田敬介氏著作の(「郡築小作争議と杉谷つも」『大正デモクラシーの体制変動と対抗』、熊本近代史研究会、1996年)および同氏執筆の新聞記事を引用・参考にさせて頂きました。感謝します。