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八代地域の女子教育に尽力 片岡マサ

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008393 更新日:2020年8月1日更新

片岡マサ 片岡マサ(1880~1973)

神を愛し、生徒たちを愛した一生

長崎県出身。明治43年、私立八代女子技芸学校(現・八代白百合学園高等学校)の創立から、昭和29年(同23年から校長)退職するまで44年間、八代地域の女子教育に尽力。同28年には文部大臣表彰受賞。退職後は、神奈川県藤沢市のナザレト修道院で祈りの生活を送り、同48年帰天。

北岡先生!お久しぶり・・・・

 昭和38年のことです。ひとりの修道女が八代駅に降り立ちました。かなりの高齢と見受けられますが、足取りはしっかりとしており、目の輝きも力強いものがあります。
 突然、その顔がほころびました。
 「先生、先生、片岡先生!」
 ホームを駆けてくる女性の一団がありました。八代白百合学園の卒業生たちです。その人の名は片岡マサ。彼女らの恩師で、実に10年ぶりの再会でした。
 片岡マサはそのとき83歳。神奈川県藤沢市からはるばるやってきたのです。マサはかつての教え子の顔を見ながら、いつしか明治43年、八代白百合学園の前身である私立八代女子技芸学校の創立時のことを思い出していました。それは生徒数わずか41名の苦難の船出でした。

博愛医院・ナザレ園

 明治の中頃、コール神父の布教により八代のカトリック信仰は復活したが、多くの貧しい病人や子供たちに心を痛めた神父は、その救護をシャルトル聖パウロ修道会に依頼した。
 1900(明治33年)に、フランス人修道女スール・ウラリ・ドゥ・ラ・クロア=マリー・モルジュ(医師、修院長)とスール・アンジェル・ドュ・カルベール、日本人修道女スール・ジョセフ・小磯エイ(看護師)が、八代の地を踏んだ。八代白百合学園創立の礎は、ここから始まる。二之町にあった廃屋を借りて、物資不足な中での生活は、西洋人スールにとっては困難きわまりないものであったが、その中で病人の治療、子供の世話、また近所の婦女子への裁縫などのヨーロッパ技芸教育も行われ、博愛医院・ナザレ園・技芸女学院の基礎が築かれた。

創立のあけぼの

片岡マサとスールジョゼフスール・片岡マサ(右)、スール・ジョゼフ(左)

 話は明治33年(1900)の八代の町にさかのぼります。八代郡の農村地帯のなかに、松江城と郡役所をかかえて栄える八代町。お店や旅館、料理屋などが軒を並べる、小さな城下町です。
 その町の中心部に、修道院が建ちました。そこに、フランスのシャルトル聖パウロ修道会日本支部から派遣されたフランス人2人と日本人スール・ジョゼフ=小磯ヱイがやってきます。彼女たちは廃屋を借りて、病人の治療、のちの博愛医院・ナザレ園につながる子どもたちの世話、そして少女たちに向けた裁縫や刺繍などの西洋技芸教育に献身しました。そして八代支所開設以来10年後の明治43年、新校舎を完成させて講師たちもそろえ、新たに「私立八代女子技芸学校」として開校します。生徒数わずか41名。その小さな学校の開校式に、初代の教員として採用された片岡マサ(30歳)の姿がありました。
 もともと八代は、マサの出身地・長崎と同じく、昔ながらのキリスト教信仰の地です。キリシタン大名であった小西行長に治められたことから多くの領民がキリスト教を信じました。それ故に、17世紀末からはじまったキリシタン弾圧により「シモン竹田」に代表される多くの殉教者を出した土地柄です。
 とはいえ、当時はキリスト教は異教の地である八代に、この学校が根を下ろすには大きな努力を必要としました。

シモン竹田

 八代はキリシタン大名・小西行長の故地であった。「関ヶ原」後に加藤清正領になって改宗が強行された。「心から改宗せぬものは斬罪に処す」と厳命が出た。家士の中の信者の一人にシモン竹田がいた。シモンは八代奉行所の三宅覚佐ヱ門と親友であった。覚佐ヱ門は、その母を説いて改宗をすすめたが、殉教を覚悟している母もまたシモンと共に死ぬことを希望し、信仰を変えようとしなかった。覚佐ヱ門もしかたなく、シモンの斬首を命ずる。シモンはマリアの聖名を唱えながら、従容として35歳の生涯を終わった。これは肥後における殉教のはじめである。

大正から昭和へ、そして戦争へ

 片岡マサの姿が、このとき開校式の場にあったのは、彼女のおいたちからして運命づけられていたといえるでしょう。彼女は明治13年(1880)、長崎県浦上の生まれ。
 浦上といえば、有名な浦上天主堂(大正15年完成)のあるところ。江戸時代から多くの住民がキリスト教を信じ、厳しい弾圧があったにもかかわらず隠れキリシタンとして信仰を守ってきた土地柄です。この地の人々のキリスト教信仰は途絶えることなく現在まで脈々と伝えられ、多くの聖職者を世に送り出しています。
 片岡マサも、生まれながらの敬虔なクリスチャン。信仰を心の糧として一生を送ることには、なんの疑いも持ってはいませんでした。そんな彼女が、シャルトル聖パウロ修道会の一修道女として熊本・八代での活動を任命され、柳行李一つもって生まれて初めての八代の地にやってきたのです。
 八代女子技芸学校はその後大正3年、「私立八代技芸女学校」となり、大正10年には高等女学校に昇格して「八代実科高等女学校」に。そして大正15年には普通科高校として「八代成美高等女学校」と名前を変えますが、マサ先生は創立の精神のもと生徒を指導し続けます。
 八代の名門私立高校として歩み続ける、成美高女。しかし、昭和10年を過ぎるころになると、日本は「神国日本」をスローガンに、軍国主義につき進んでいきます。異教であるキリスト教の教えのもと、教育を行うマサたちの学校にとって、強烈な逆風であったことは想像に難くありません。

苦難の時代を乗り越えて

生徒たちを前に、マサは諄々とこう諭すのです。
 「私たちの教えは、国のためでなく、人のためにある教えなのです。たとえ戦争中であっても、敵、味方の区別なく、すべての人々の幸せを望んでいます。あなたたちは誇りをもって、この学校で学んでください。私を含めこの学校の先生方もただ、世界の平和だけを願っているのですから」とはいえ、八代近郊や熊本県内の農家や工場での勤労奉仕、八代宮や松井神社、そして遠くは東京の宮城外苑での清掃奉仕などに、もんぺ姿で生徒たちは汗を流します。女学校の校庭は開墾されてサツマイモ畑となり、片隅には炭焼き窯もつくられました。キリスト教の平和の理念によって立つミッションスクールも、また、マサの思いとうらはらに戦争に組みこまれていったのです。

 昭和20年8月、日本は2発の原子爆弾を受け、第二次世界大戦の終結を迎えることになります。その2発めが落とされたのは、長崎の浦上。そこは片岡マサの出生地そのものでした。八代から、長崎の方の空に上がるキノコ雲が見えたと伝えられています。ともあれ戦争は終わりました。
 戦争が終わって2年後の昭和22年、学校教育に6・3・3制が施行され、「八代白百合学園中学校」が開校します。翌23年には「八代白百合学園高等学校」が開校、片岡マサが第7代校長に就任します。このときマサは68歳。八代女子技芸学校に奉職してから38年がたっていました。さらに昭和26年、シャルトル聖パウロ修道会が運営する全国7つの学校はその名を「白百合学園」に統一されます。今に歌い継がれている校歌が物語ります。

 「清く芳し白百合の
 花を心の我等がいのち
 人の道には咲かせてそ
 神と国とに捧げまつらん」

「八代白百合学園・概要創立75周年記念誌」より

戦時中は、戦時体制を強化するために勤労動員の法令が出されて、本校においても次のような勤労奉仕隊が結成された。
 1942年(昭和17年)5月
 勤労奉仕隊編成
 1943年(昭和18年)4月
 報国隊編成
 1944年(昭和19年)3月
 挺身隊結成
 1945年(昭和20年)6月
 学徒戦闘義勇隊結成
勤労奉仕のほとんどは食糧増産のための農耕作業であり、麦島にある報国農場あるいは近くの農家に分散して出かけて行っては、米・麦・さつまいも等の植付けから収穫まで、毎日のように奉仕作業に従事した。
農耕作業の合間には、軍服の修理、紙袋張り、あるいは燃料の薪材を上宮等から運び出したり、また八代宮や松井神社その他遠くは宮城外苑の掃除等の奉仕作業をした。
1944年(昭和19年)からは、興国人絹工場・王子製紙工場・浅野セメント会社・昭和農産化学工場・三陽航機等の工場への学徒動員があった。1945年(昭和20年)3月には、熊本市健軍にあった三菱重工の工場で四年生全員の卒業式が行われている。物資不足を補うべく校庭が開墾されてさつまいも畑と化し、また校庭のすみには自分たちの手で炭焼窯も作られた。

八代宮参拝
毎月行われた八代宮参拝
宮城外苑奉仕隊
宮城外苑奉仕隊(昭和18年)
射撃訓練の画像
射撃訓練
勤労奉仕隊の田植えの画像
勤労奉仕隊の田植え

「文部大臣賞」に輝く

 昭和28年、学校の発展と八代の教育界に尽くした大きな功績がたたえられて、片岡マサは文部大臣表彰を受けることになります。天皇・皇后両陛下から直接授けられた賜杯に、静かにほほえむ片岡マサ。その胸には、長かった八代での暮らしの一場面一場面、いまは亡き学園の創始者や、偉大な先輩たち、記憶に残る教え子たちの顔がつぎつぎと浮かび、流れ去っていました。そして、44年におよんだ教職生活に終止符をうつべきときが来たとの思いも、そのとき胸中によぎっていたのです。
 学園を退職し、八代を離れた片岡マサは、神奈川県藤沢市のナザレト修道院に移り、そこで祈りの余生を過ごすことになります。昭和38年、そんなマサになつかしい八代白百合学園から新校舎落成記念式への招待状が届きました。そのときマサ83歳。学園を離れて10年めにして、初めての、そしてたぶん最後の八代来訪。マサは胸をときめかせ、寝台特急「みずほ」に乗りこみます。
 翌日、列車は熊本駅を過ぎ、やがてゆっくりと八代駅へ。東京オリンピックの開催を翌年にひかえ、日本の高度成長の波を受けた八代の町のめざましい発展ぶりが車窓に近づいてきました。やがて列車は停まり、ホームに立ちおりたマサを包んだのは、特有の空気のにおいでした。
 「そうそう、これが八代の町のにおい。あのなつかしい八代のにおい」
それは、八代の町に立ち並ぶ巨大な煙突群から吐き出されていた、いくつもの工場の煙のにおいでした。
 そのときでした。マサの耳に届いた「先生、先生、片岡先生!」の声。
 そこには、マサを取り囲むように駆け寄るかつての教え子たちの姿があったのです。

還らざる日々、・・・・生き続ける日々。

片岡マサと生徒たち

 10年ぶりに目にする八代白百合学園の姿に、マサはなつかしさと新鮮な驚きを感じることになります。マサがいたときと同じ場所に、いまも存在する愛しの学園。もう半世紀も前にできあがった昔なじみの建物、このたび新たに完成した4階建ての新校舎がモダンです。
 「あゝ懐かしい、あの頃のままに‥‥」
 かつて、マサが暮らしの本拠としていた修道院もそのまま残されていました。
 それは、彼女が八代に着任以来、日々を共にした、思い出が一杯詰まった館です。
 いとおしそうに、バルコニーの手摺をいつまでも撫るマサでした。
 「あの木はどうなっていますか? まだ元気に実をつけているでしょうか?」
マサが気にしていたのは、昭和13年ごろに学校の敷地を拡張した際、校庭のまんなかに残された数本のザボンの木のこと。白い花を一杯につけた木陰で、丸く黄色に膨らんだ実の下で、輪になって生徒たちと語り合ったザボンの木も、マサの懐かしい記憶の中に刻まれていました。
 残念ながら新校舎の建設にともなって切られてしまったザボンの木をなつかしむマサに、かつての教え子たちは口々にこう言うのでした。
 「ザボンの木はなくても、ここにマ・スール片岡先生がいらっしゃる。それだけで充分です」
 感動と興奮のうちに過ごした八代での数日が過ぎ、マサは再び「みずほ」の客となります。迎えに出た時と同じように、教え子たちは先生を八代駅まで見送ります。
 「先生、今度は、いつ(会える)」「また、来て下さい」「お元気で‥‥」これが最後と思いながらも、教え子たちは再会の夢を託したのです。その10年後(昭和48年)、片岡マサはナザレト修道院で93年の生涯を全うして死去。そのとき、八代白百合学園の職員やかつての教え子、そして在校生たちまでもが、藤沢における彼女の葬儀に駆けつけました。

ある日、私は、当時、マサさんたちスールが寝起きしていた「修道院」を訪れました。
 いまも、八代白百合学園の敷地内に宝もののように大切に使われています。正式名は「シャルトル聖パウロ修道女会八代修道院記念館」

片岡マサを見送る生徒
八代駅にてお見送り
(昭和38年・前列左から2人目)

期華会総会にての画像
期華会総会にて
(昭和38年・中央)

校舎落成の日
校舎 落成の日 期華会員と共に(昭和38年・前列左から4人目)
「八代白百合学園・概要創立75周年記念誌」より

記念館の画像
記念館

 木造二階建ての洋館です。壁はイギリス風の下見張りコロニアル建築様式を伝える。一階・二階とも大きく張り出したベランダに品格が滲みます。
 「総合学習の時間の教室として使っていますよ。現役です」。案内役の谷口貞女校長先生は続ける。「ここにマサ先生は寝起きしていらっしゃったのです」
 「えっ、本当ですか‥‥」
 やっとマサ先生そのものに巡り会った気がした。マサ先生の体温が残っている”ゆかしい“お住まいだ。マサ先生の足跡と面影を追って取材を続けてきただけに懐かしい探し求めていた人にあえた感動がこみあげてくる。
 長崎から柳行李一つ提げて、異郷の八代の地に赴任したマサ先生は、この部屋で44年を過ごしたのだ。一、二階とも四つの室、そこにスール達の静かな息づかいが滲み込んでいる。
 二階のベランダから外を見る。今は目の前のビルで視界は遮られているが、その頃は、竜峰山系が目の前に青々と迫っていたことだろう。
 「マサ先生のふるさとの、ふるさとです」

浜崎フカさん(右)と村橋カヅ子さん(左)の画像
浜崎フカさん(右)
村橋カヅ子さん(左)

飛永久子さんの画像
飛永久子さん

マサ先生と共に過ごされたお二人に会えた。浜崎フサさん、飛永久子さん。お二人は、現在も敷地内のマリア館で暮らしていらっしゃる。飛永久子さんは、マサ先生の思い出、40年も前のことを、遠い記憶の中に語る。
 「礼法を習いました。お作法と言いますか、お行儀の躾です」白のソックス、セーラー服の女生徒たちを前にしたスール姿が浮かぶ。
 「とってもお優しい、品のよい優しさという印象が残っています」「今の方には、紀子さまのようなと申し上げたら判り易いでしょうか‥‥」
 「舎監をされたり、売店の手伝いなどもなさっていました」
 お二人は記憶の糸をたぐるのに一生懸命だ。マサ先生のお人柄を偲ぶ有名なエピソードが語り伝えられていた。
 ある時、八代に美空ひばりが公演にやってきた。女生徒たちはひばりの話でもちきり、教室で、「ひばり、ひばり」とかまびすしい。マサ先生「あなた達はそんなにひばりが珍しいの、野原に沢山いるじゃない」‥‥これには教室中大笑いをしたという。
 先生は俗世間のことは、トンとご存知なかった。そんな先生だが、口癖は、いつも「心配せんでよか、心配せんでよか」優しい口調でそう言われると生徒たちはホッとした。
 悩みやトラブルも「スーッと消えていきました」
 「私は昭和8年、20歳のとき八代に参りまして、以来74年ずっと白百合学園におります。マサ先生の教えに従って、他者への愛、世の人々への愛、両親への感謝、そして、白百合学園のために尽くしてきました」。明治の人らしい浜崎さんの律儀さ、語り口、張りのある高い声。この中にマサ先生が投影されていた。
 マサ先生の葬儀に八代から藤沢まで、各代表が参列したことは先に述べた。当時、藤沢まで20時間近くはかかる。
 学園には、その折の弔辞や沢山の弔電が大切に保管されていた。稀有のことだ。
 「先生のお顔やお体を真っ白いカーネーションとフリージアで囲んでさしあげました。そのお姿は生前のお優しさそのままでした」
 「八代の地にともされた小さな愛の灯、その灯が大きく白百合学園をここまで育ててこられました」 参列者は、天国からの先生の優しい八代弁を聞いたことでしょう。
 「悲しまんでよか、天国から見守っとるよ」
 やっと会えた、マサ先生に。——満ち足りた思いの中に取材を終え学校を辞した。
 校庭ではマーチングドリルの練習しきりであった。もう生徒たちはマサ先生の名も知らない。
 でも、この中からマサ先生に続く人がいるに違いない。伝統(=トラディショナル)の言葉には、受け継ぎ続けること、と言う意味がある。
 若鮎のような生徒たちの香気だろうか、近くの臥龍梅のそれだろうか、春の風が清々しい美しい匂いを運んできた。
 「白百合学園、うちの娘も卒業しました。とってもこころがやさしくなって‥‥。親戚6人が卒業生です」と八代市日奈久の作増アツ子さんは、自慢げに語る。娘とはあのカレンダー童画作家のさとうゆうこさんのこと。カレンダーの童の中に私はマサ先生を思い浮かべたことでした。
 「白百合」の花は聖母マリアのシンボルで、清らかさ、やさしさ、気高さ、強さを表しています。これは、校長である片岡マサのイメージともみごとに重なります。

シャルトル聖パウロ修道女会 八代修道院記念館

最初の修道院の画像
最初の修道院

 八代に最初に建った修道院。
 明治33年に建設された。八代白百合学園高等学校敷地内に健在。
 木造2階の洋館で、壁はイギリス風の下見板張り、屋根は南北棟の寄棟造り、1階は中廊下を挟んで2室づつの1室構成、1階・2階とも東側の2面に大きく張り出したベランダが設けられている。
 ベランダ下見板張コロニアル建築洋式の伝播をとらえる上で貴重な遺構。


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