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宮本武蔵と八代

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008387 更新日:2020年8月1日更新

宮本武蔵と八代のえにし
八代にこそ、武蔵が忠利に仕えたヒミツがある。

松井興長を頼った武蔵

あの「巌流島」の試合当時、忠興は豊前小倉城主であった。後に八代城主になった。その時の家老・松井興長は試合の立会人をつとめ、なにくれとなく武蔵の世話をし、昵懇の間柄であった。

その松井興長は、細川藩の家老として八代城を預かっている(忠興没後八代城を預かることとなった)。武蔵は昔の縁をたよって興長に手紙(暗に就職を依頼する)を出した。

武蔵が細川忠利の客分として迎えられる「きっかけ」が八代にあった。八代の松井興長なかりせば、あの武蔵も一所不住のまま終ったかも知れない。松井興長の陰の力こそ、武蔵と熊本を結ぶ大きな力であった。

全国ただ2つの武蔵の書状、八代で発見

武蔵の書状の画像

武蔵の書状(八代市立博物館蔵)

宮本武蔵書状

一筆申上候、有馬陳ニ而ハ
預御使者殊御音信被思召出
処過當至極奉存候、拙者事
其以後江戸・上方ニ罷在候が、今
爰元ヘ参申儀御不審申可被成候、
少ハ用之儀候ヘハ罷越候、逗留申候ハゝ
祗候仕可申上候、恐惶謹言、
七月十八日 玄信(花押)
 宮本武蔵
 二天

 長岡佐渡守様
 人々御中

内容は「有馬陣中(島原の乱)で音信(贈り物)を賜わったことの御礼」を述べ、島原の乱以前から両者が知己の関係にあったのが判る。「乱後、武蔵は江戸や上方に居りましたが、用事があって、今熊本に来ています。しばらく滞在いたしますのであなた様(興長)にお目にかかりたい」と述べている。武蔵は細川藩に発言力をもつ興長に暗に就職を依頼した。

武蔵が熊本で忠利に仕えることになったいきさつを解く重要な書状である。書状には年号は記されていないが、寛永十七年と思われる。この手紙が出されて一ヶ月足らずで武蔵の仕官が実現した。

二天記も八代で

武蔵の死後に著された武蔵の伝記ともいうべき重要な文献。八代松井家家臣の豊田又四郎正剛(1672~1749)が武蔵に直接仕え教えを受けた人々や弟子たちの談話を記録、その子・正修から、孫・景英の三代にわたって完成された。武蔵は死後の弟子たちの面倒を松井寄之に頼み、八代松井家に引きとってもらった関係で、八代に弟子が移っていたのでその伝記「二天記」は八代で綴られた。

すべてが史実とは言えない部分もあるが、武蔵の伝記として纏ったものとして定評あり。この「二天記」と小倉手向山の「小倉碑文」の二つが、武蔵物語のベースとなっている。貴重な資料。

その著者・豊田又四郎正剛の墓が八代古麓の春光寺にあり、境内には他にも「戦気」の石塔が建っている。武蔵ゆかりの古刹である。

松井家に残る文化財

松井家の(財)松井文庫には江戸期の多くの文化財が保存されている。武蔵にかかわる書画・太刀・鞍はじめ、千利休、春日局、沢庵和尚の古文書など貴重な史料、美術品がある。

松井家に残る文化財の画像

八代にもある武蔵の墓

宮本武蔵の墓

八代に、武蔵の二天一流が盛んであったことの証に、八代・妙見町公民館の山手に「武蔵の塚」と伝わるものが残されている。

谷川に沿って少し上ると玉垣に囲まれた五輪の塔が二基—御小袖塚と呼ばれ、懐良親王が、父・後醍醐天皇から頂いた小袖を、天皇崩御の後で、この地に埋めて天皇を祀ったといわれている。

その御小袖塚の後方に背丈より少し低い石碑、両面に「新免武蔵の塚」側面に「寛政九年冬、村上氏門弟子—」と刻まれている。

八代在住の二天一流村上派の門弟が、武蔵没後152年目に建てた。


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