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正保三年、松井興長(おきなが)が八代城代(城主の格)になります。あの宮本武蔵が死んだ翌年のことです。以後、松井家は10代225年間、八代・芦北と下益城郡の一部を治めます。
松井家のもと、八代は繁栄期に向かいます。商家や町衆の財も力も大きくなり、それに伴って妙見祭がますます盛んになっていきます。
その行列に笠鉾、獅子舞、花奴など、さらに出町の亀蛇(ガメ)も加わり、九州三大祭りといわれる今の妙見祭の原型が固まりました。
九つの町で奉納する笠鉾が「一基一億円かかる」ことや、200個以上の部品を設計図なしで(口伝で)組み立てると聞いたら驚きです。
今も、三斎の描いた雲龍の神輿を先頭にした神幸行列は三百数十年前の町人文化をそのままの形で伝えています。八代市民の絢爛、精緻、品格とパワーを秘めた伝統の祭りとなっています。
神輿内部天井絵
町衆の力が漲ってくると”工業パワー“もそれに伴って大きくなります。
「七百町新地」。代表格は文政四年の大干拓事業(用水延長18
km、橋56、樋門53)の大プロジェクトです。
鏡町惣庄屋・鹿子木量平(かのこぎりょうへい)と郷土出身の種山石工や、岩永三五郎の指揮のもとに行われました。石工・岩永三五郎の石造りの技術も貢献しました。江戸時代の産業革命です。いま、豊かに広がるい草の田や、米、トマト、メロンの地域産品は先人の汗の結晶の恵みです。
石造りの樋門や数々の石橋は、大切な産業遺構を示し、近代工業都市八代として熊本の産業をリードしてきた歴史の足跡と未来への可能性を物語ります。
鹿子木量平は文政神社に祀られ、多くの石橋を作った岩永三五郎の像が故郷に建てられ、大鞘(おざや)節は歌い続けられています。
誰もが知ってる「彦一ばなし」には、江戸中・後期の八代城下町が生きづいている。
その主人公は出町の出身とか。(光徳寺に彦一塚が在る)。
頓智がきいて、ユーモラス、陰湿さがない。スケールが大きい。海外との交わりが多い八代人の気質そのもの。そして背骨には反骨精神、権力へのレジスタンスもある。八代の殿さんも黙認してたようだ。
八代にしかない財産の一つ。
竜峰山にてんぐの松があるばってん、そこにゃかくれみのばもったてんぐどんがおらすげな、そん山に彦一はのぼったたい。
高か岩ん上がって、たかんぽば目にあててながめながら
「わァ、トンさんな、あぎゃんとこっでごっそうくいよらす、うまかごたるね。」
と大声ばあげた。てんぐさがとんできて
「おい彦一、そん目がね、おれんもかさんかい。」
「バッテンてんぐさん、こら人にはかされんとバイ。」
「そぎゃんいわんでん、一度でよかけんかさんかい。」
「そんなら、てんぐさん、あんたのかくれみのとかえっこしてみまっしゅか。」
てんぐはしょっこつにゃァつらで、みのばかし、どぎゃんとんみゆっどかと思い、岩の上からお城ばみたげなたい。ところが何も見えん、
「彦一、こら何も見えんたい、どぎゃんすっとか。」
「そらな、さかさんたい。」
といいながら、かくれみのばきていっさんに山ばかけりおりたげな。
てんぐどんな、だまされたっば知ってカンカン、それから顔はおこなったげなたい。
彦一は町にもどり、だれも知らんもんだけん、すぐ酒屋で酒ば腹一ぱいのうで、よっぱろうてそこでねむってしもたったい。
ところが、みのから足が出とったもんだけん主人から見つかりみのはとられ、もやされてしもうたげなもん。
そこへてんぐが、おかっけて来て
「こら彦一、ぬしゃ、よくもおりばだましたね、はようみのばもどせ。」
「あんな、てんぐさん、あんみのばきとったバッテンここん主人にみっけたれたっばい、かくれみのてうそうたい。」
「そぎゃんこたなか、みのばはよやれ。」
「バッテンな、てんぐさん、そんみのは灰になっとるけん、その灰ば体につけなっせ。」
てんぐもしょんなしに、その灰ば体につけたら見えんごつなったけん、ほっとして山にもどったげなたい。とこっが汗んでてみんな灰は落ちてしもうたげな。
(八代青年会議所「ふるさと百話-総集編-」より)
妙見祭 笠鉾「菊慈童」
妙見祭 神輿
岩永三五郎像
(八代市鏡町芝口)
赤松第一号眼鏡橋
(八代市二見赤松町)
八代城郭図
〔八代城時代——〕
中期、松井時代前期
1645(正保2)
忠興(三斎)没
1646(正保3)
8月13日、興長八代入(3万石)
1688(元禄1)
松井直之、松浜軒を建てる
1756(宝暦6)
妙見宮祭礼神幸行列、植柳(うやなぎ)の盆踊、この頃より盛んになる
〔八代城時代——〕
後期、松井時代後期
1821(文政4)
「七百町新地」
毎年、米2,400石、
塩1,600石の増収となる
1822(文政5)
日奈久温泉神社、再建
1840(天保11)
赤松第一号眼鏡橋