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懐良親王が八代へ

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008383 更新日:2020年8月1日更新

懐良(かねなが)親王八代へ。
名和氏(なわし)、親王を高田(こうだ)へ迎える

高田(こうだ)は九州南朝最後の拠点となる

源頼朝の鎌倉幕府が出来て武家政治が続いた頃、後醍醐天皇の「建武の新政」があり、八代には名和氏が論功行賞(ろんこうこうしょう)で地頭職としてやってきました。名和氏は古麓に城を築き、一帯に城下町が出来上がりました。それ迄の妙見宮(現・八代神社)の門前町に加えて城下町が出来ました。宗教文化と武家文化の二つが共に柱となって、一つの地に四百年近く栄えました。

その頃、日本は後醍醐天皇の南朝と、足利尊氏の北朝の二つに分かれた南北朝時代を迎えます。南朝方の名和氏はご幼少の身で征西大将軍に任じられた懐良親王を擁護します。

菊池に征西府を置いた親王は、一時は太宰府を勢力下に置く勢いでしたが、次第に後退していきました。その後、大将軍を良成親王に譲り、菊池から八代・高田の御所に、続いて良成親王も移ります。

この八代高田の期間は約四十年間ですが、八代は九州南朝方の最後の拠りどころとして歴史に名を残しました。いま、当時の多くの史蹟が残され、物語も語り伝えられています。

百五十年間の名和氏の時代が続いた後、人吉から相良氏が八代に入ってきます。戦国大名として相良氏は九十年余、八代を治め、その間、遙拝堰(ようはいぜき)はじめ多くの水路を作り、徳渕港は中国への貿易船で賑わいました。

八代御免革(ごめんがわ)

御免革(八代染革)の起りは懐良親王の頃。それまでの天平革に加えて正平年間に新しい革染めの新型が作られ(正平革)製造と販売が革染屋の牧兵庫に許されたことから御免革といわれる。肥後名物、献上品であったが、今はない。

日奈久温泉の発見もこの頃です。約600年間、お湯が湧き続けています。

郷土産業のい草が岩崎主馬守忠久公(いわさきしゅめのかみただひさこう)により植えられました。

岩崎主馬守忠久公は、八代上土(あげつち)城(八代市千丁町)の城主となると早速い草の栽培を始めます。以後五百年、い草は八代地方代表の県産品として”日本一の畳表“の生産地になっています。

岩崎主馬守忠久公を祀る岩崎神社(八代市千丁町太牟田)の大祭は今も盛んです。

菩提寺真寺
懐良親王の菩提寺悟真寺
(八代市妙見町)
宝匡印塔の画像
宝篋印塔
(八代市妙見町)
懐良親王の御陵の画像
懐良親王の御陵
(八代市妙見町)
高田の征西府跡の画像
高田の征西府跡
(八代市奈良木町)

懐良親王(かねながしんのう)の遺跡

懐良親王、続いて良成親王が八代にお住まいになったことを示す。
父・後醍醐天皇と母の御陵墓・小袖塚
懐良親王御筆銘の御霊牌
親王御筆銘の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
懐良、良成両親王の高田御所 跡(八代征西府跡)
両親王の御墓‥‥など
悟真寺
遙拝(ようはい)神社・遙拝堰(ようはいぜき)

主な出来事

鎌倉

南北朝

14C
〔古麓城時代——〕
 前期、名和時代
1334(建武1)
名和義高、八代荘の地頭職となる
1347(正平2)
懐良親王、八代入、高田宮園に征西府をおく
1381(天授7)
懐良親王、ご生母のために宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建てる
1390(元中7)
良成親王、宇土より八代入
1392(元中9)
中宮山悟真寺、創建

室町

15C
〔古麓城時代——〕
 中期、名和・相良抗争時代
1409(応永16) 日奈久温泉発見
16C
〔古麓城時代——〕
 後期、相良時代
1504(永正1) 相良長毎、八代入 1505(永正2) 岩崎主馬守忠久公、い草を植える
1539(天文8)
外国貿易船「市来丸」進水

安土・桃山

1582(天正10)
島津義久、八代をとる


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