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日奈久を綴った文人たち

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0008357 更新日:2020年8月1日更新

日奈久に宿した文人・墨客は多い。その筆跡の條幅など多く残されている。ここではそれぞれの時代の日奈久をいきいきと描いている文人の「旅行記」をとりあげました。

徳富蔵花「死の降にて」

大正2年9月29日、水俣から日奈久へ。4泊もした。当時は馬車しかなかった。

 「さあ、もうは日奈久」
 火光は見えて向ふへ逃げ逃げするかと思はるゝ日奈久の、電燈はつきながら薄ら淋しい町にやつと入り込み、柳屋の前に馬車が止まつた時は、八時を過ぎて居た。
 汽船で二時間、途寄りはしたが馬車で十一時間、それでも三太郎を越しは越したのである。日奈久
 火の國の肥後に數沸く温泉の中で、日奈久は海つきの好い位置を占めて居る。小蒸汽は寄るし、八代停車場からは平道三里、馬車は一時間で着く。海を隔てゝ西正面に天草の島山を眺め、北は八代につゞく新地の長々しい堤防を見越して宇土半島の山々が青く、半島の西の突端が名は實に添ふ三角嶽。それをさながら前立にして、後に肥前島原の温仙嶽が悠然と圓い顔を出して居る。景色も中々好い。
 父は保養とさへ云へば日奈久に來た。季の姉を連れて來た夏などは、英學なども早くからしてよろづ新しい女を氣どつて居た姉が、町はづれ鳩山下の潮の淨い處で海水浴をやつて居ると、色の白い奇魔な女の首が浮いて居ると日奈久中の大評判になつたものだ。余が最後に來たは十九年前の春日清戰爭の末方であつた。(中略)……
 十九年ぶりに來て見れば、埋立は出來る、電燈はつく、宏壯な湯宿は建つ、日奈久は面目を更めて居る。座敷の前まで海の來て居た柳屋も、ずつと海から引込んだ形になり、建物も大きくなつて居る。

徳富蘇峰「燃震勝遊記」

大正11年5月6日、水俣より馬車で三太郎峠を越えて日奈久で2泊。

 日奈久の潮青閣に投じたのは、二時半であつた。
 潮青閣は日奈久の埠頭に立つてゐる。其の下には多くの運送船、漁舟等來り泊し、老杜の所謂る『門泊東呉萬里船』の觀がある。而して遙かに温仙嶽と相對し、不知火海を一眸の中に望む。晴好雨奇の景、鍾めて此中にある。(中略)‥‥予等は弓削君夫婦、其他と市中を見物し、湯の神様に参詣し、山腹より飽迄、不知火海の風光を観賞した。
 日奈久は予に取りては、尤も思出多き地の一だ。予の少壯時代には、屡々此地に愛読の書を肩にして來り寓した。明治三十三年來遊の際、『夢裏風光十七年』の句があつた。然もそれよりして又た二十三年を経た。即ち予が日奈久に於ける書生生活時代は、己に四十年の昔だ。
 新樹蒼蒼花欲然。 軽車疾駛幾層嶺。
 故人家在燐洋畔。 一夜高樓聴雨眠。
 燐洋とは不知火洋の事だ。日奈久は、本來火流だ。肥前風土記に、景行天皇が熊襲を誅して、筑紫國を巡狩の際、『従葦北火流浦發船、幸於火國。』とあるは、此の日奈久のことだ。

上田幸法の詩集から

おきんじょ

日奈久を「ひなご」と呼んだ。
裏山の中腹に
温泉ゆかりの神社があった。
八代海がひろがり
その向うに天草の島がかすんでいる。
秋には境内で相撲があった。
女相撲はここの名物らしい。
旅人は風のように
旅情を求めてやってくるものだ。
そして必ず宿の浴衣のままで
狭い露地を散策する。
たいてい角の土産物屋をのぞいてみる。
素朴な人形があった。
名前を訊くと
「おきんじょ」と答える。
その夜。
旅人はおきんじょといっしょに
深い眠りにおちた。

おきんじょ


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