国宝 青井阿蘇神社について
熊本県初の国宝 青井阿蘇神社

国宝とは?
私たちの身の回りにはたくさんの数の文化財がありますが、そのすべてを守ることは難しい面があります。このため、これらの文化財のうちの特に価値の高いものを選び、後世にそのままの姿で伝えるために、特に法律や条例によって守ることを表明した文化財を「指定文化財」と呼びます。指定文化財には、市町村指定・県指定・国指定など、その価値によっていくつかのランクがありますが、文化財保護法によって国が認めた文化財が国指定文化財です。国指定文化財のうち、建物や美術工芸品など、物として指定されたものを重要文化財と呼びますが、さらに、国は、この中でも特に優れたもので、世界に誇れる価値のあるものを「国宝」として、特別な価値付けをしているのです。つまり国宝は、まさに数ある文化財の中でも頂点に位置する存在です。
現在の文化財保護制度は、昭和25年の文化財保護法の制定と同時にスタートしました。このほど国宝に指定された青井阿蘇神社は、実に58年に及ぶ歴史の中で、熊本で初めて誕生した国宝ということになります。また、建造物としては日本の最南端に位置するものです。

熊本と国宝
熊本ゆかりの国宝としては、青井阿蘇神社以外にも忘れることのできないものがあります。玉名郡和水町にある江田船山古墳から明治6年に発見された出土品です。冠や耳飾り、大刀や鏡、沓など、およそ90点にのぼる副葬品で、特に75文字が刻まれた「銀象嵌銘大刀」が示すように、我が国の古代史を語る上で欠かせない貴重な資料であるとして、昭和40年に一括して国宝に指定されました。
ただし、これらの出土品は、発見後ほどなく明治政府が買い上げたため、現在は東京国立博物館(平成館)まで出かけていかねば見ることができません。平成13年には、熊本国体開催に伴い、128年ぶりに、県立美術館で念願の里帰り展が開かれ、多くの人々が訪れたのは記憶に新しいところです。
青井阿蘇神社は、県民のみなさんが、いつでも身近に触れることのできるものです。今回の青井阿蘇神社の指定は、名実ともに、国の宝であり、かつ、熊本県民にとっての宝の誕生につながったということができると思います。

なぜ国宝になったか
【国文化審議会の評価】 審議会では次のような評価がなされました。
1.青井阿蘇神社の社殿群は、慶長年間に一連のものとして造営されたものであり、統一的意匠を持ち、完成度も高い。
2.各社殿は中世球磨地方に展開した独自性の強い意匠を継承しつつ、桃山時代の華麗な装飾性も機敏に取り入れ、近世の球磨地方における社寺建築の手本となっている。
3.本殿前面の雲龍など要所を飾る秀麗な彫刻、特異な幣・拝殿形式などは、広く南九州にその影響が認められ、南九州地方における近世神社建築の発展において、深い文化史的意義が認められる。
【ポイント1:左右一対の龍の彫り物】
廊の向って右柱には、口を開けた龍が剣を持ち、左柱には、口を閉じた龍が梵鐘を巻き込んだ姿が彫刻されています。この龍の彫り物は、南九州の文化圏の中で発展したもので、現存するものでは青井阿蘇神社が最古例となっています。この形式は南九州の近世社寺建造物に影響を与えたと考えられています。

【ポイント2:平面形式】
青井阿蘇神社の平面形式の特徴は、T字型になった拝殿の形式でしょう。拝殿の内部が拝殿、神楽殿(かぐらでん)、神供所(じんくしょ)の三部屋に仕切られており、神楽殿には地方独特な舞台装飾が施され、10月8日には国選択の無形民俗文化財「球磨神楽(くまかぐら)」が演じられます。
一般的な神社は、方形の拝殿のみであり、T字型は青井阿蘇神社独特のものです。なお他の球磨地方の神社は、細長い拝殿と神供所がL字型(鍵型)になっています。


青井阿蘇神社の指定された建物
1 本殿(慶長15年(1610)造):三間社流造、銅板葺
2.廊 ( 同 上 ):桁行1間、梁間1間、一重、切妻造、銅板葺
3.幣殿( 同 上 ):桁行5間、梁間3間、一重、寄棟造、茅葺
4.拝殿(慶長16年(1611)造):桁行7間、梁間3間、一重、寄棟造、茅葺、
向拝1間、唐破風造、銅板葺
5.楼門(慶長18年(1613)造):三間一戸楼門、寄棟造、茅葺
附:6.棟札1枚 慶長15年(1610)3月28日、
7.銘札5枚 享保9年(1724)5月28日、寛保元年(1741)4月11日、
寛延4年(1751)4月15日、安永6年(1777)2月23日、
安政2年(1855)4月
附指定とは、国指定物件の価値を補完するものです。棟札と銘札が附指定されていますが、これらは、社殿の建造された経緯やその後の修理の状況などが記された貴重なものです。









青井阿蘇神社のミニ知識
青井阿蘇神社は、大同元年(806)9月9日に創建されたもので、建久年中(1189~98)には、相良家初代長頼が遠州から当地の支配するに当たり、相良氏の氏神として代々尊崇されてきました。
以来、藩主は、球磨郡内で疫病が流行すると、人々の平安を願い悪疫退散の大祈願を行ったり、朝鮮出兵時には、自らの武運長久を祈願したりしました。
社名は、延宝5年(1677)に青井大明神の額が楼門に掲げられたことが知られてます。その後、明治元年(1868)に青井大明神を青井神社に改称、さらに明治5年(1872)に現在の青井阿蘇神社の名称となりました。
明治15年(1882)に本殿屋根を相良氏に替わって球磨郡中の寄付金で葺き替えられましたが、このように新体制になってからは、地域の人々により大切に守り伝えられてきました。
【御神体】
青井阿蘇神社は、大同元年に阿蘇神社の分霊を勧請したとされるもので、祭神は、阿蘇十二神の内の健磐龍命・阿蘇都媛命・国造速甕玉命の三神とされています。
嘉暦2年(1327)には、銅造十一面観音菩薩坐像掛仏、応永16年(1409)、直径1メートルほどの掛仏の奉納など、当時の神仏習合の様子をうかがわせる貴重なものです。

【お祭り】
おくんち祭、夏越祭、稲荷神社の初午の三大祭をはじめ、四季を通じて様々な祭が行われます。中でもおくんち祭は、めでたい重陽の日(9月9日)に神様が鎮座されたことを祝う盛大な祭で、現在は10月9日の神幸式を中心に3日から11日まで行われます。8日夜は勇壮な球磨神楽が行われ、神幸式では神輿、獅子舞、神馬、稚児など約3000名の長い行列が市街地を練り歩きます。旧暦6月30日の夏越祭は茅の輪くぐりや人形流しで罪・穢れを祓い清める祭で、2月の初午は五穀豊穣や商売繁盛を祈願する祭です。
至徳3年(1386)に夏越祭が、文明4年(1472)に神楽が、慶安5年(1652)には藩主による神楽太鼓奉納が行われたという記録があり、数百年間変わることのない祈りの姿を今に伝えています。


【造った人々】
慶長15年の棟札によると、相良家第20代長毎(頼房)と家臣の相良清兵衛(藤原 頼兄)、その子頼安により、同14年に着手され、本殿・廊・幣殿は翌年、拝殿は同16年、楼門は同18年に完成しました。
また、造営には、長毎の家臣で藩主と並ぶ権力を持っていた相良清兵衛は、寺社奉行として現在の社殿の建設に力を尽くしました。この清兵衛屋敷跡は、人吉城跡の歴史資料館で一部が公開されています。
なお、同棟札には。惣大工として窪田正市允・愛甲喜七郎をはじめ、小工数十人と書かれています。惣大工は大工・小工を指揮した者と思われます。

建物の装飾の特徴

文化財・国宝青井阿蘇神社の教育への活用
地域に住む人々の共通の思い出と言えるものが歴史であり、地域の歩みを示す思い出がたくさん詰まった証拠の品が文化財です。そのために多くの場合、文化財は、それぞれの地域がその地域であること示す上で、象徴的なものとなっています。
ところで、文化財には、さまざまな種類があります。なかでも建造物は、美術工芸品や埋蔵文化財とは違い、いつでも誰でも目にすることができるもので、多くは地域のランドマーク(地域の目印)となっています。
また、今回指定された青井阿蘇神社のような社寺建築は、地域に住む人々の思いや願いが込められています。たとえば、楼門や幣殿を飾る彫刻の題材となった「二十四孝」は、「親に孝養を尽くす子よ出でよ」という、先人の思いが込められたものでしょう。
このように、文化財は、地域を知る上で欠かすことの出来ない教材なのです。文化財が、学校教育や生涯学習など、さまざまな機会に活用されることを願っています。
文化財通信くまもと 第26号 [PDFファイル/2.97MB]






