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小笠原少斎の墓(おがさわらしょうさいのはか) 熊本市

更新日:2010年11月8日
小笠原氏の墓

所在地

   熊本市黒髪5-23-33

利用案内

   駐車場・トイレ   なし

解説

   慶長5年(1600年)7月17日、関ヶ原への雲行きをはらんで、石田三成は諸大名の妻子を人質とするため、細川屋敷を囲み、細川忠興の妻・玉子(たま、ガラシャ)に大坂城への入城をうながしました。屋敷にいた人びとはこれを拒否、このような事態を予測していた忠興の命もあり、家老の小笠原少斎は玉子に最期の時を告げ、介錯を申し出ました。玉子は泰然として辞世の句を詠み、少斎の手で壮絶な最期を遂げました。「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が辞世の句として残されています。少斎自身も屋敷に火を放ち、玉子に殉じました。

   後に、少斎の一族である小笠原氏も細川家とともに豊前小倉を経て熊本に入り、立田山南麓の常楽寺に墓所を定めました。本家、分家に分かれて整然と墓が並び、少斎の墓は本家墓地に建てられています。

   小笠原家は新羅三郎義光を祖とする家で、少斎の父種盛は加々美と称し、足利義輝の近習を勤めていましたが、永禄8年(1565年)5月19日に義輝が殺害されたときに一緒に討ち死にしています。少斎は浪人となりましたが、同じく義輝に仕えていた細川幽斎によって丹後で召し抱えられ、小笠原備前守秀清と名乗りました。その後、幽斎とともに剃髪(ていはつ)し、名を少斎と改めました。

   小笠原家は、丹後以来の名家としてだけでなく、少斎が玉子に殉じた功績も認められ、高禄が与えられたうえに少斎の長子、次子には忠興の姪や妹が嫁せられました。代々重く扱われ、家老や備頭(そなえがしら)という重要な役職を歴任し、10代・長洪のときに明治維新を迎えました。

   ただし、少斎の三男、刑部入道玄也は、はじめキリシタン大名高山右近に仕え、右近の改易後も細川家に高禄で召し抱えられました。玄也自身、熱烈なキリスト教信者で、同じキリスト教信者の加賀山隼人の娘みやを妻とし、固い信仰で結ばれていました。キリスト教が弾圧されても信仰を捨てず、藩主忠利の改宗の勧めにも応じませんでした。ついに、寛永12年(1635年)12月23日、横手の禅定寺で処刑され、妻子や使用人ら15名が殉教しました。

   常楽寺を開いた僧は日羅といわれ、当時は天台宗に属していたようですが、詳しくはわかりません。衰退後、浄土宗の僧が再興、寿徳山常楽寺と号しました。寛文12年(1672年)、泰勝寺3世・乾明がこの寺地を賜り、小笠原備前守長英が菩提所としました。延宝5年(1677年)、泰勝寺末寺となって再興され、山号を寿福山とし、臨済宗京都妙心寺の末寺となりました。

   小笠原家墓所の常楽寺は、現在は跡もなく、わずかに墓地がその面影を残しています。

参考文献

   高田泰史 編 『平成 肥後国誌 上巻』 平成肥後国誌刊行会 1998年
   戸田敏夫 著 『戦国細川一族』 新人物往来社 1982年

周辺情報

   近くの見どころ:リデル・ライト両女史記念館、桜山神社(神風連資料館)、森林総合研究所など

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