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「二百十日」と阿蘇(にひゃくとおかとあそ) 阿蘇市

更新日:2012年1月19日

漱石記念館「二百十日」記念碑

所在地

   阿蘇市内牧

利用案内

   駐車場・トイレ   あり

解説

   明治29年(1896年)、夏目漱石が第五高等学校(現 熊本大学)の英語教員として松山から熊本にやってきました。そして、イギリス留学のために熊本を離れたのが明治33年(1900年)、熊本に暮らした歳月は4年3か月に過ぎませんが、この年月は結婚、長女の誕生と漱石の人生にとって節目となる時期でした。

   このころはまだ本格的には小説を書いておらず、文学活動は主に俳句で、熊本にいるあいだに996句を詠んでいます。また、この間に五高の同僚であった山川伸二郎と県内旅行を行っており、1回目が小天温泉で、2回目が阿蘇です。この2回の旅行体験は、明治39年(1906年)に発表された「草枕」、「二百十日」のベースになっています。

   「二百十日」は『中央公論』の明治39年10月号に掲載されたもので、初期短編の代表作といわれます。東京から来た2人の男が、内牧温泉に泊まり、翌日阿蘇神社に参拝し、火口を見るため阿蘇山に登るが、その日はちょうど二百十日、嵐に遭って道に迷い、ようやく麓(ふもと)の馬車宿にたどり着き、翌日再び山頂を目指す、という内容です。

   しかし、この作品は社会正義を訴え、社会改革を目指す頑固な圭さんと、超然派ではあるが、最後は圭さんに従う碌さんという個性豊かな2人の、リズミカルでユーモアあふれる会話で全編が構成されています。この作品について、漱石自身は高浜虚子に宛てた手紙で「僕思うに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆圭さんを見習うがよろしい。然らずんば碌さんほど悟るがよろしい。今の青年はドッチでもない、カラ駄目だ、生意気な許りだ。」と書いています。日露戦争後の若者、社会に対する漱石自身の苛立ちを背景に創作された作品だといえます。

   さて、実際の阿蘇旅行は明治32年(1899年)、8月29日から9月2日に行われました。戸下温泉(現 南阿蘇村)に泊まり、その後、内牧温泉に泊まっています。内牧温泉は前年に発見されたばかりで、漱石が訪れたころは数件しか温泉旅館がなく、温泉養神亭という旅館に宿泊しています。そこから阿蘇神社に詣で、阿蘇登山に出かけますが、嵐に遭い道に迷って山頂まで行けず、立野の馬車宿で泊まり、小説とは違って山頂には登らず帰ったようです。

   この様子は、漱石が親友・正岡子規に宛てた手紙で知ることができます。その手紙には「温泉湧く谷の底より初嵐」(戸下温泉)、「湯槽から詩法を見るや稲の花」(内牧温泉)、「朝寒み白木の宮に詣でけり」(阿蘇神社)、「灰に濡れて立つや薄と萩の中」(阿蘇で道に迷って)「語り出す祭文は何宵の秋」(立野の馬車宿)など、この旅で詠んだ29句が書き添えられています。

   漱石が内牧で泊まった温泉養神亭は、山王閣という名前で現在も続いています。ここには「漱石記念館」があり、宿泊客や旅行者が自由に見学できるようになっています。漱石が泊まった部屋がそのまま再現され、明治時代の旅館にタイムスリップしたような雰囲気を楽しむことができます。庭には「行けど萩ゆけどすすきの原広し」という句が刻まれた文学碑があります。

   また、阿蘇パノラマライン坊中線沿い、坊中キャンプ場先にも「二百十日」の文学碑が建てられています。ほかにも、与謝野鉄幹、北原白秋、国木田独歩、種田山頭火なども阿蘇を訪れ、すぐれた作品を残しています。阿蘇の雄大な自然が文人たちの作品のエネルギーとなったのではないでしょうか。

参考文献

   荒木精之 著 『阿蘇』 第4回熊本県民文化祭阿蘇実行委員会 1991年
   熊本の風土とこころ編集委員会 編 『熊本の風土とこころ 19 熊本の文学碑』 熊本日日新聞社 1979年

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