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地域発 ふるさとの自然と文化

宝成就寺跡古塔碑群(ほうじょうじゅじあとことうひぐん) 玉名市

更新日:2009年12月5日
五輪宝塔

所在地

 玉名市高瀬

利用案内

 駐車場・トイレ なし

解説

■宝成就寺の由緒

宝成就寺跡

 宝成就寺は、延喜4年(904年)に聖宝僧正を開基として創建されたと伝えられる真言宗の寺院でした。京都大覚寺の末寺で、江戸時代に談議所町があった場所に建てられていました。同寺には、後鳥羽天皇の宸筆(しんぴつ※天皇の直筆)による金字の額が掲げられていたといわれています。その後火災にあい、観応2年(1351年)ごろ、快承法印によって再興されましたが、永正元年(1504年)に再び炎上し、大永元年(1521年)になって快空法印が再興しました。菊池氏や高瀬氏(菊池氏同族)の保護を受け、高瀬武楯が応永20年(1413年)に寺領を寄進しています(注1)。なお「肥後国誌」は、そのときに寄進された寺領を13町8反余と記しています。

 文亀3年(1503年)に高瀬武基が戦死し、高瀬城が無主になるにおよび、豊後大友氏が高瀬に進出してきましたが、大友氏もまた宝成就寺を保護したようです。天文13年(1544年)の大友宗麟書状には、宗麟が名和顕興に対して宝成就寺本堂再興の協力を要請しています(注2)。加藤清正が入国すると寺領は没収されて、代わりに「糧料」として10石が与えられました。細川忠利が藩主になると4反余りの寺地が年貢免除地とされました。かつては玉名郡、菊池郡、山本郡、肥前国に12か寺の末寺がありましたが、「肥後国誌」が編纂されたころ(注3)は、玉名郡内の3か寺のみとなりました。

■宝成就寺跡に残る古塔群

 明治10年(1877年)の西南戦争では高瀬でも激戦が繰り広げられ、その戦火により宝成就寺は焼失し廃寺となりました。現在は、「五輪宝塔1基、無銘の板碑5基を含む歴代住職の墓碑や供養塔33基、南側の覆堂に納められた石仏4基、地蔵菩薩浮き彫り、無縫塔各1基、堂前の宝篋印塔1基」(注4)が集められており、最も古いものは「五輪宝塔」で「観応二年」の刻銘があります。「肥後国誌」もこの五輪宝塔に触れ、正面に「観応二年八月十八日入定」、南面に「大僧都法印中興」、北面に「快承□上信」の刻銘があることを記載しています。 

(注1) 「宝成就文書」六、七(『玉名市史 資料篇5 古文書』所収)。なお、七「藤原(高瀬)武楯寄進状」によると寺領の範囲は、東:堀、南:浮津江(現在の高瀬眼鏡橋付近)、西:繁根木河、北:北籠手屋屋敷と書かれています。

(注2) 「宝成就文書」一〇(『玉名市史 資料篇5 古文書』所収)

(注3) 「肥後国誌」は明和9年(1772年)に森本一瑞が著したものです。同書には、享保16年(1731年)の時点で、快承法印より21代の住持を数えています。

(注4) 玉名市立歴史博物館こころピア作成パンフレット「高瀬町図」より引用

参考文献

 森本一瑞編 後藤是山増補 『肥後国誌 上 復刻版』 青潮社 1984年
 『日本歴史地名体系 44 熊本県の地名』 平凡社 1986年            

周辺情報

 高瀬には、裏川、高瀬眼鏡橋、秋丸眼鏡橋、俵ころがしが残る高瀬船着場跡など、菊池川と関連が深い史跡が残っています。史跡巡りのあとに玉名市立歴史博物館こころピアに立ち寄ると、さらに玉名の歴史が分かります。  

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