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地域発 ふるさとの自然と文化

願行寺(がんぎょうじ) 玉名市

更新日:2009年12月5日
願行寺門

所在地

    玉名市高瀬

利用案内

    駐車場   菊池川河川敷
    トイレ    裏川遊歩道に公衆トイレあり

解説

■願行寺の由緒

     高瀬五山(注1)の一つに数えられる蒼園山願行寺(時宗)は、貞和5年(1349年)に遊行五世安国上人が開基し、清浄光末寺のなかでも最上位に位置づけられました)注2)。また大同3年(808年)に紀貫之が建立したという寺伝もあります。

    願行寺山門は菊池武時が寄贈したものと伝えられ、文明13年(1481年)に菊池重朝が開催した「菊池万句」に「願行寺吾阿」が参加している(注3)ことからも菊池氏との密接な関係をうかがわせます。
    なお、同寺の近くにある保田木神社一帯にはかつて高瀬城がありました。菊池武尚(武時の子)が築城したといわれ、11代武基まで高瀬氏の居城となります(武尚の子より高瀬氏を名乗りました)。

    中世、高瀬港が国内外に向けた交易港であったこともあり、菊池氏や高瀬氏によって願行寺が「文学・芸能」の担い手としての機能を果たしたと考えられます(注4)。
    文亀3年(1503年)に高瀬城主高瀬武基が宇土で戦死すると、高瀬城は無主となり、豊後大友氏が高瀬に進出してきました。大友氏もまた願行寺を保護したとみられ、願行寺仏殿再興に高瀬町が協力したことに対して大友宗麟が謝意を示しています(注5)。加藤清正が肥後に入国すると寺領は減じられましたが、細川忠利が藩主となり寺領7反2畝余りが安堵されました。

    江戸時代の願行寺については、天保9年(1838年)7月付け「高瀬町願行寺書上げ」(注6)で見ることができます。この文書によると、当時は本堂・客殿・座敷・近習間・居間・庫裡・観音堂・鎮守堂といった建物が見え、松林軒という建物は天明5年(1785年)の「大風」によって倒れました。「市中」(高瀬町か)からは10両程のお金が寄進されたようです。

    境内には竜造寺隆信首塚、宝篋印塔、代々の住職を供養した板碑などの古塔が建ち、本堂には木造僧形倚像(鎌倉時代中期~後期)や木造僧形坐像(南北朝時代)、豊臣秀吉より賜ったと伝えられる陣太鼓があります。

■竜造寺隆信の首塚

竜造寺隆信の首塚

    戦国時代の九州は、豊後大友氏、肥前竜造寺氏、薩摩島津氏が覇権を競っていましたが、天正6年(1578年)に大友氏が耳川の合戦で島津氏に敗れるとその均衡が崩れました。その影響は肥後国にもおよび、島津氏が南から、竜造寺氏が北から肥後国に侵攻してきました。竜造寺隆信は、天正7年(1579年)に肥後北部に侵攻して小代氏らを降伏させ、天正9年(1581年)には隈府(現・菊池市)に入り、隈部氏らを降伏させます。島津氏も八代を拠点に北上し、天正10年(1582年)、ついに高瀬まで進み、高瀬を巡り両軍の対立が続きます。

    天正12年(1584年)に入り島原に竜造寺軍が侵攻、有馬氏の援軍要請を受けた島津氏も派兵し、沖田畷の戦いで両軍が激突しました。
    この戦いで竜造寺隆信は討ち取られ、その首は佐敷にいた島津義久のもとに送られた後、竜造寺家の重臣鍋島直茂(注7)のもとに届けられましたが、直茂は受け取りを拒否しました。その後、首は願行寺に埋葬されました。

    なぜ、隆信の首が願行寺に埋葬されたのでしょうか?『肥後国誌』(注8)には次のような話が記されています。
    直茂に首の受取を拒否されたため、島津の使者は八代に引き返すことになりました。途中高瀬川(菊池川)を越えようとすると、隆信の首が突然大岩のように重くなったのです。これは先年竜造寺氏と島津氏との間で高瀬川を互いの境界と決めたため、隆信の霊が境界を越えて島津領に入るのを拒んでいるためだと考え、願行寺の至(四)阿という僧侶に供養を頼みました。
    
    また一方の説では、竜造寺氏にわが子を殺された赤星親隆のために島津氏が高瀬に隆信の首を送り、首実検後、願行寺に埋葬されたとあります。
    竜造寺隆信の首は、明治4年(1871年)になって佐賀高伝寺に改葬されました。

■豊臣秀吉の陣太鼓

陣太鼓

    大友氏の要請により豊臣秀吉は九州出兵に乗り出します。天正15年(1587年)4月13日、秀吉は高瀬に入ると願行寺に宿泊し、秀吉の「御陣」の寺として、今後一切の乱暴を受けないように保障をしています(注9)。
    同寺には豊臣秀吉から賜ったと伝えられる陣太鼓(写真)が二つあります。一つの太鼓には皮部が若干残り、巴紋の一部が見えます。なお、秀吉に降伏した島津義久も上京に際して同年6月に願行寺を宿所としています。

(注1) 清源寺・永徳寺・寿福寺・宝成就寺・願行寺を高瀬五山といいます。
(注2・4) 後掲『熊本県文化財調査報告 第91集』
(注3) 『菊池市史 上巻』(P751)、また「願行寺吾阿」は「其阿(ごあ)」上人のことです。
(注5) 『玉名市史 資料篇5 古文書』所収「願行寺文書」三 
(注6) 『玉名市史 史料篇5 古文書』所収「藤沢山衆領軒」
(注7) 隆信の死後、事実上竜造寺家を統率し、鍋島佐賀藩の祖となります。 
(注8) 後藤是山編 『肥後国誌 上巻 復刻版』 青潮社 1984年
(注9) 『玉名市史 資料篇5 古文書』所収「願行寺文書」八

参考文献

    村上晶子 「島津氏の進出と高瀬」 『玉名市立歴史博物館紀要 第2号』 玉名市立歴史博物館 1997年     
    玉名市秘書企画課編 『玉名市歴史資料集成 第1集』 玉名市 1987年
    熊本県教育委員会編 『熊本県文化財調査報告 第91集』 熊本県教育委員会 1987年

周辺情報

    高瀬には、裏川、高瀬眼鏡橋、秋丸眼鏡橋、俵ころがしが残る高瀬船着場跡など菊池川と関連が深い史跡があります。史跡巡りのあと玉名市立歴史博物館こころピアに立ち寄れば、さらに玉名の歴史が分かります。            

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