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細川藩時代

最終更新日:
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近世細川氏は安土桃山時代の武将であり、また歌道の奥義を究めた当代随一の文化人・細川幽斉(藤孝)を初代としています。細川氏は3代忠利の代に加藤氏改易の後をうけて熊本藩の藩主となり、寛永9年(1632)以降第13代韶邦の明治2年(1869)の版籍奉還まで三百数十年の間、肥後54万石の大名として続いてきました。

項目:水前寺成趣園 古今伝授の間 旧細川刑部邸 泰勝寺跡 細川ガラシャ 北岡自然公園 阿部一族 宇土細川別邸 釣耕園 叢桂園 三賢堂 採釣園 再春館 豊前街道南関御茶屋跡 細川藩の刑法 時習館 正福寺 春日寺 出水神社 日輪寺 甲佐のやな場と的石の茶屋

水前寺成趣園(じょうじゅえん)

熊本市

もとは細川氏の庭園で、3代忠利の代に「国府の御茶屋」として設けられたものです。忠利はここに羅漢寺(らかんじ)(大分県)住職・玄宅和尚のために寺を建立して「水前寺」と名づけたことが名前の由来となっています。その後、綱利の命により現在とほぼ同じ庭園が造営され現在に至っています。
水前寺公園は、桃山式の美しい回遊式の庭園で、東海道五十三次を模したものとされています。西南の役では富士山をかたどった築山に砲台がすえられ、一時は荒廃していましたが、明治11年、出水神社が新設され、また昔の御茶屋(酔月亭)跡には、古今伝授の間が移築され、その優美な趣、清冽な清水の湧く庭園として、熊本を代表する観光地となっています。

水前寺成趣園内の写真  水前寺成趣園の写真

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古今伝授の間(こきんでんじゅのま)

熊本市

この建物は後陽成天皇の弟、八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王に細川幽斎が古今和歌集の秘伝を授与した由緒ある建物で、その名もこのことに由来しています。
慶長5年(1600年)わずか500余りの兵とともに田辺城を守る幽斎は、石田三成の一万五千の兵に囲まれて玉砕を覚悟していましたが、時の帝、後陽成天皇は「幽斎を失えば古今伝授もともに滅びる」と、勅命により幽斉の命を助けました。
この歴史のドラマの舞台となった建物は、大正元年に京から移し復元されたもの。

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旧細川刑部邸(ぎょうぶてい)

熊本市

細川刑部家は、細川家三代目藩主・忠利の弟、興孝が祖となって始まった一門です。刑部邸は延宝6年(1678)に東子飼町に建てられた別荘のこと。残っていた一部を熊本城に移築し、本格的に復元されました。上級武士の暮らしを今に伝える格調のある屋敷です。

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泰勝寺(たいしょうじ)跡 (立田自然公園)

熊本市

熊本市の立田山山麓にある細川家菩提寺跡で、細川家の屋敷、庭園、墓地に分かれています。墓地には藤孝夫妻、忠興夫妻の4つの廟が並んでいる他、10代斉茲(なりしげ)と11代斉樹の墓が建てられています。明治初年に「神仏分離令」が出されてからは泰勝寺本堂を神式の祠堂に改め別邸としていますが、現在でも泰勝寺跡の呼び名が一般的です。
庭園部分は立田自然公園として広く親しまれており、茶室仰松軒(こうしょうけん)や苔園、梅園も落ち着いた風情で人気があります。

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細川ガラシャ

明智光秀の二女で細川忠興(ただおき)の妻。本名は玉子といいますが、洗礼名のガラシャの方がよく知られています。ガラシャを有名にしたのは、関ヶ原の直前石田三成が徳川家康に従う武将の妻を人質にしようとしたとき、邸に火を放ち、家臣に胸を突かせて果て、ついに三成の野望を阻止したことにあります。「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」の辞世の句は、彼女の波乱の生涯を思うごとに胸のつまる一首です。

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北岡自然公園 (妙解寺跡)

熊本市

肥後細川五十四万石の基を確立した細川忠利(3代)の菩提を弔うため建立された寺で歴代の藩主および、その妻子、歴代住職の墓があります。明治初年以降は、「神仏分離令」に伴い細川家の北岡別邸となっていました。その後、昭和20年の戦災で焼失したため、昭和30年、熊本市が一部を譲り受け自然公園としたものです。現在、自然の地形を生かした園内にはバラ園、ロックガーデン、弓道場が設けられ、市民の憩いの場として親しまれています。また、忠利の殉死にまつわる悲劇は森鷗外の「阿部一族」であまりにも有名な話。墓所には阿部弥一右衛門(あべやいちえもん)の墓もあります。

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阿部一族」屋敷跡

熊本市

「阿部一族」は森鴎外が乃木大将の殉死に触発されて書いた歴史小説の第二作目。
藩主忠利の死去に際し18人が殉死を許されましたが、有能な阿部弥市右衛門は側近として仕えていたにもかかわらず殉死を許されませんでした。ところが、藩中では彼が命を惜しんでいるという悪口を言う者が出てきたので、弥市右衛門は追い腹を切ったのです。その1年後、忠利の一周忌に嫡子権兵衛はとっさに髻(もとどり)を切り、位牌の前に供えたため縛り首にされてしまいます。そこで二男以下の兄弟は屋敷にこもり、討つ手と戦って全員討ち死にするというものです。
一族の屋敷跡は現熊本放送の一角です。

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宇土細川別邸

宇城市

明治37年(1904)に建てられたといわれます。ここには16代細川護立公の姉・志津子姫が居住していました。姫は日蓮宗の信者でお堂を建立し、折々名僧を招いて仏法を聞いていたといわれています。

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釣耕園(ちょうこうえん)

熊本市

江戸時代中頃に造られた細川藩の御茶屋の一つで、5代綱利の代に続(つづき)家に与えられ、現在でもそのままの姿で残っています。名前は、米田松洞(こめだしょうとう)(細川藩中老職、漢詩人)がここに遊び「耕雲釣月」と詠じたことに由来しています。

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叢桂園(そうけいえん)

熊本市

村井家の別荘で、文政元年(1818)、頼山陽が村井琴山を訪ねた折に一日中庭作りを手伝わせたと伝えられています。庭には、紙尾川の流れを引き込んだ池や「来者不拒 去者不遂」の句石などがあります。
村井家は代々学者の家として知られており、特に藩の医学校、再春館の創立に尽力した見朴、椿寿(琴山)は有名です。

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三賢堂(さんけんどう)

熊本市

熊本出身の政治家・安藤謙蔵が、熊本市民の精神修養の場にしたいと昭和11年に建てた鉄筋コンクリートの円形のお堂。肥後の三賢人、菊池武時、加藤清正、細川重賢の座像が安置されていることから三賢堂と呼ばれるようになりました。

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採釣園(さいちょうえん)

熊本市

熊本市立必由館高等学校の中にある採釣園は、細川家三家老の一人・米田家の別荘として造られたもの。泉水と築山松や紅葉を配した回遊式の見事な庭園です。「山に採り美茹(くら)うべし、水に釣り鮮食らうべし、起居に時なくこれ安ずる所に適す」という漢詩にちなみ、採釣園と名づけられました。

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再春

熊本市

熊本市二本木にあった藩政時代の医学校。藩医の村井見朴が8代細川重賢に願い出て、宝歴7年(1756)に開校しました。患者を身分・貧富で差別しない、治療技術のみでなく学理も学ぶ、師弟関係を尊重するという三ヵ条を教育方針とし、また生徒の入学資格を階級身分によってではなく、医道に志のあるものとするなど、民主的な運営がなされていました。明治3年(1870)の廃止まで、多くの医師を育てました。

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豊前街道南関御茶屋跡

南関町

嘉永5年(1852)頃に完成し、藩主が参勤交代する時や、領内巡視の際に休憩・宿泊していたものです。平成17年に保存修理が完成し、往時の姿を取り戻しました。屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれています。

南関御茶屋跡の写真

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細川藩の刑法

細川藩の刑法は、後に明治政府の最初の統一刑法にも影響を与えるほど、近代的なものでした。
8代重賢の治世の宝暦4年(1754)に、細川藩の刑法典「御刑法草書」が制定され、翌年から施行されました。この刑法典は、日本刑法史上で特筆すべき内容があります。
当時全国的に広く行われていた追放刑を原則として廃止し、犯人の更生を目指して徒刑(今日の懲役刑)を採用し、毎日の労働に対しては2人扶持(米1升相当)を支給しました。日本での近代的な自由刑のさきがけといえます。
また、法典の編さん技術の面で、幕府の公事方御定書(くじかたおさだめがき)と異なり、総則と犯罪類型を分けて規定するなど、論理的体系的にも優れていました。これは中国の明律(みんりつ)に範を求めたことにもよります。
18世紀半ば、すぐれた刑法が生まれたことは、細川藩の文化的水準の高さを示すものです。

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時習館(じしゅうかん)

熊本市

8代重賢が熊本城内に設立した藩校で、宝暦5年(1755年)から明治3年(1870)の廃止まで続きました。規模、組織内容の充実していることでは藩校の中でも群を抜いており、代表的なものの1つとされています。なお、文芸教授所を時習館、武芸演習所を東榭(しゃ)、西榭と称しており、学風は朱子学に貫かれていたということです。

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正福寺(しょうふくじ)

熊本市

坪井の仁王さん通りの名前の由来となっている巨大な仁王さんの立つお寺が正福寺です。この寺は小倉から細川家が肥後に移る際に、一緒に移されたものです。

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春日寺(かすがじ)

熊本市

土地の人は「かすがんじ」と呼んでいますが、正式には大平山春日寺岫雲院(しゅううんいん)。臨済宗大徳寺派に属し延久3年(1071)の創設とされています。この寺は忠利が鷹狩りのときに休息した縁で忠利の火葬が営まれました。その折、忠利が可愛がっていた2羽の鷹が寺の井戸に飛び込んで“殉死”したとされています。その井戸は今も境内に残されています。

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出水神社(いずみじんじゃ)

熊本市

明治11年、細川氏恩顧の人々によって初代藤孝、2代忠興、3代忠利、8代重賢を祀るために建立されました。その後、歴代藩主とガラシャ夫人も合わせて祀られるようになりました。
社殿は、昭和48年に再興されたもので、8月第1土曜日に奉納される薪能はことに有名です。

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日輪寺(にちりんじ)

山鹿市

「忠臣蔵」で知られた赤穂浪士は、幕府の命により、細川綱利(5代)邸をはじめ、毛利邸、松下邸、水野邸の4ヵ所に分けて預けられました。細川家に預けられたのは大石内蔵助以下17名で、行き届いた待遇がなされたといいます。
日輪寺には、この17人の遺髪を祀る遺髪塔があり、切腹した2月4日には、義士たちをしのぶ義士祭りも行われています。

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甲佐のやな場と的石の茶屋

藩主の細川忠利のために作られた甲佐町のやな場は、忠利が毎年とれたての落ちアユを楽しみに来遊しました。現在も地元の観光資源として営業(6月から11月初め)しています。
的石の茶屋は参勤交代のとき二重峠を越えて阿蘇入りした殿様が休憩した所で現在もその面影を残し庭の池からは清水が湧いています。

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