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坂口れい子

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坂口れい子坂口 れい子(1914~)

いつも大きな夢を追いつづけた

大正3年9月30日、八代市生まれ。女子師範卒業後、小学校教員をしていたが、結婚して台湾に。戦後、「文学者」に参加し、「蕃地」で新潮社文学賞、「蕃婦ロポウの話」で芥川賞候補。その他、台湾文学奨励賞等。この間、玉名家政高、八代商業高校教諭等を務め、昭和35年退職。
上記以外の著書に、「蕃社の譜」「霧社」「曙光」等。

先生になるのが夢だった

坂口れい子。第二次世界大戦後の日本の文壇で活躍した、当時の表現でいえば「女流」小説家です。そう呼ばれたとき、
「なぜ女性の小説家を女流と呼ぶのでしょうね。男性の小説家を男流とは呼ばないのにね」
彼女はそう言っていたずらっぽく笑う女性でした。
  だからといって、彼女はけっしてへそ曲りな女性でも、理屈っぽい女性でもありません。ものごとの本質を、ごく常識的に、そしてあるがままにとらえ、そこにある悲しさ、うれしさ、楽しさを的確に描くことのできる、ふつうの人々と近い感覚をもった女性小説家だったのです。
   子は大正3年9月30日、八代町で生まれました。旧姓は山本。あまりなじみのない漢字で 子と名づけたことからも、彼女にお花などの素養を身につけさせたことからもわかるように、彼女の生家は学識の高い裕福な中流家庭でした。
  そんな家庭の影響もあってか、 子は文学少女に育っていきます。小学校、中学校時代、彼女は友人たちから「秀才」と呼ばれるほどの学力を発揮し、クラスでは一目置かれる存在でした。学び、吸収することの楽しさ、すばらしさ。それを、彼女はすでに知っていたのです。
  「将来は学校の先生になって、次の世代の子どもたちにこのよろこびの世界を教えてあげたい」
少女時代、彼女はしだいにそんな夢をもつようになります。
  進学した八代高等女学校から、さらに熊本女子師範学校に。そして昭和8年に卒業後、19歳のれい子は八代郡の代陽尋常高等小学校に教員として赴任します。初めての始業式のために両親があつらえてくれたきもの姿のまぶしい若先生でした。

「海外雄飛」に芽生えた疑問

若者たちが進取の気風をもち、海外への情熱に燃えていた昭和10年前後。大東亜共栄圏という名のもと、日本が軍国主義へとつき進んでいた時代でした。海外雄飛のかけ声にあおられ、満州、朝鮮、台湾など、日本が進めていた植民地政策の地への進出をめざす若者たちも数多くありました。
   子も、そんな情熱につき動かされる若者たちのひとりでした。せまい日本から飛び出し、広がりつつある新たな領土で活躍したいという大きな夢をもっていたのです。
  昭和15年、彼女は結婚します。相手は八代で同じく教員をしている坂口貴敏。そして、海外雄飛は奇しくも若い2人の共通の夢でした。さっそく台湾に移住する教職員の募集に応じ、採用が決まると勇躍海を渡ります。
  そこで出会った教え子たちは、れい子たちと同じ新たな新天地を夢見てやってきた日本人家族の子どもたちと、これから日本人と同化して生きていかなければならない台湾人の子どもたち。
  「遅れた文化をもつアジアの国々を、一等国である日本に同化させる」
日本がめざす「大東亜共栄圏」思想の大きな柱となっているそんな考えになんの疑問も感じなかったれい子は、やがて自分を含めた日本人の考えが傲慢だったことに気づくのです。そのうえ、日本人がもつ台湾人へのあからさまな差別意識を、 子は不愉快なものと感じたのでした。
  「私たちは、なんの根拠もない日本人の優越感から、間違った台湾人教育をしているような気がするのです。台湾の人たちは、私たちが来なかった方が幸せだったんじゃないでしょうか」
帰宅した教職員の官舎で、夫にそう問いかけるれい子。
  台湾という国がもつ豊かな文化と、独自の歴史や伝統、そして人々の心にしっかりと刻まれている、台湾人としてのアイデンティティー。それらをすべて奪い取り、自分たちに好都合な理屈だけで日本人と同化させることがはたして正しいことなのか…、れい子の悩める日々が続きます

大東亜共栄圏

 第2次世界大戦に際して日本が唱えたアジア政策。日、満、華を中心にインド、ビルマ、タイ、オーストラリアなどを含む地域の共存共栄を主張し、欧米諸国にかわって日本のアジアを支配を正当化しようとしたもの。

皇民化政策

 「大東亜共栄圏」構想に基づき、韓国、台湾を手始めに、皇国の民、即ち日本の国民の理念のもとに、日本語政策などをおしすすめた政策。

文学の道に夢をかけた

 台湾の学校で教壇に立つかたわら、れい子は執筆に手を染めるようになります。もともと好きだった文学の道でした。彼女が感じる、国策と自分の気持ちとのギャップ。それを声を大にして言うことがだんだん難しくなっていく当時の風を感じて、原稿用紙の升目をうめるという行為で自己を表現しはじめたのでした。
  彼女の処女作のタイトルは、「鄭一家」。三代にわたる台湾人家庭の、不和、ぶつかりあい、悩みを通し、日本に強制される皇民化政策の矛盾を描きだした、れい子のその当時の心を映す作品でした。この小説が、第1回台湾文学賞の奨励賞を受賞することになったのです。そのとき 子、29歳。彼女に大きな自信をもたらし、いつか小説家で身を立てたいという新たな夢を抱かせるできごとでした。
  ほどなく、太平洋戦争がぼっ発。れい子は台湾に移民した日本人の生活を描写した作品「曙光」を発表し、高い評価を得ます。しかし、それからの彼女の創作活動が順風満帆だったかといえば、けっしてそうではありませんでした。
  戦争が激化し、坂口夫妻も台湾の山村に疎開をせざるをえない状態に陥ったころ。彼女が書きあげた「時計草」という作品について、台湾にある日本の当局から「出頭すべし」という連絡が入ったのです。
  「この作品は、日本による台湾の皇民化政策を批判している。このような小説の出版は、一億火の玉の心で戦っているわが国のためにならない」
  日本の雄飛を願う心と、植民地の人々の人権を重んずる心は、彼女にとってはまったく同じ比重をもったことがらでした。しかし、そんな正論はもう通用しない時代。坂口れい子の、ありのままの正直な描写、それは長引く戦争によって正常な感覚が麻痺し、ヒステリックになっている日本という国には、受け入れられなくなっていたのでした。
  当局の手によって、「時計草」は大幅な削除や改作を強いられることになります。自分の「表現」がそれを書いた人の「思想」ととられる、この国の意識への疑問がわきあがります。当時の政府が敵視していたプロレタリア思想というわけでもないのに、その違いさえ見分けることのできない日本の官憲、官僚たちに、はてしない幻滅を感じるれい子でした。
  つらい気持ちを慰めるように、彼女はお花の世界に没頭します。花を愛で、花と語るとき、それは彼女の心をやさしく安らげてくれました。一時はくじけそうになった小説家への夢も、彼女の心のなかでまたまた大きくふくらみはじめるのです。

ふたたび熊本の生活へ

終戦の翌年。32歳になった 子と夫は6年ぶりになつかしい八代に帰ってきました。夫は八代市の小学校に復職。戦時中に発表した作品群で作家としての地歩を固めていたれい子は、「文学者」という同人に参加して創作活動にいそしみます。
  しかし、敗戦直後の、だれもが貧しく疲れはてていた時代でした。すでに3人の子どもをかかえていた坂口家は、夫の一教師としての収入だけでは苦しい生活を強いられていたのです。そんなときに聞かされた、教員募集の話。 子は開校2年めの玉名家政高等学校(現・玉名女子高等学校)の教員となり、玉名に単身赴任します。
  あいかわらずのきもの姿で教壇に立つれい子は、生徒たちに「きもの先生」と慕われます。日に日に復興を遂げていく時代の流れのなか、明るい表情を取り戻した女生徒たちのことをれい子は愛してやみませんでした。そして、正しいことを自由に教えることができる新時代の幸せを、しみじみと感じていたのです。
  この地で彼女が発表した「蕃地」は、第3回新潮社文学賞を受賞。39歳の彼女の名は一躍中央文壇にも響きわたることになります。
  「蕃地」、それは悲しい物語でした。台湾に暮らす日本人子弟・純。二度結婚し、二度ともすぐに新妻に去られます。その理由は、純の母親が「蕃人」(台湾の少数民族)だったこと。純の三度目の妻は純粋な気持ちをもったかわいらしい女です。しかし純はその妻を失いたくないばかりに、母のことを告げられません。それどころか、妻にそのことを知られないよう母を実家に帰し、一度も妻に会わせなかったのです。
  その母が、息子の嫁を一目見たくて通りすがりを装い純の家を訪れ、純と言葉を交わします。妻の視線を遮るように対応し、なんとか母を帰してしまう純。その女性が純の母だと知らない妻は、無邪気に言うのです。
  「私、蕃人、初めて見たわ。入れ墨って、案外ね。私、もっと怖いかと思った。ユーモラスじゃありませんか。まるで、汚れているみたい…」
  夫の母だとも知らず率直な感想を述べる妻を哀れみ、大切な人である妻と母の双方を欺いている自分の罪深さを嘆く、純。そこに描かれていたのは、台湾時代にれい子が常に感じていた、どうしようもないジレンマそのものだったのです。

八代で迎えた最高の日々

 教員の仕事にくわえ、締め切りに追われてひとり机に向かう毎日。やがて夫や3人の子どもたちと同居したいという願いが叶い、昭和32年、八代商業高校(現・秀岳館高校)に教職を得て、ふたたび八代に帰ってきます。
  ここでも彼女はつぎつぎと中央の文学誌に作品を発表、作家として評価を高めていきました。地元熊本でも、ラジオドラマの脚本や新聞の随筆など旺盛な活躍をつづけています。
  昭和35年、ついに彼女は天職と定めてついた教職を辞め、小説家として一本立ちを決意するのです。このときれい子は46歳。教え子たちの天真爛漫な笑顔にもう囲まれることのないさびしさ。それをふり払うように、彼女は執筆活動に全身全霊を傾けました。それと同時に、それまで趣味として続けてきたお花にも、真剣に取り組むようになっていきます。
  熊本在住の小説家、福島次郎は、当時の坂口 子を知る一人です。八代市の前川橋近く「橋の茶
屋」という料亭に、八代在住の文芸愛好家たちが月例会として集まっていたことが、福島が熊本日日新聞に連載した「いつまで草」という作品のなかで触れられています。それによると、
  「ここにいつも客分として、坂口れい子という四十代の女性がやってきていた。彼女は数年前に『蕃地』という小説で新潮賞を取り、それ以来、八代きっての文化人になっていて、その例会のなかでも、銀ぶち眼鏡を灯に輝かせ、瀟洒な和服をまとった小柄な体の、その帯に片手をつっこみながら頭をかしげ、威のある細声で、作品評をする姿は、まさに女王だった」と描かれていたれい子。
  「いつまで草」が小説である以上、どこまでがフィクションであるか判断のしようがありませんが、八代の文壇での地位を物語っています。
  いずれにしても、彼女の人生のなかで、このころが絶頂期であったことは間違いありません。

作家としての自立への道

「ええっ! 私が芥川賞の候補に?」
彼女の声は、10代のころのように弾んでいました。その年のある日、彼女のもとにいきなり飛びこんできたビッグニュース。「詩と眞実」誌に発表した「蕃婦ロポウの話」が、この年下半期の第44回芥川賞の候補となったのです。三浦哲郎の「忍ぶ川」と最後まで選考を争った彼女の作品は、残念ながら受賞を逃しましたが、候補作家として彼女の評価はさらに高まりました。
 2年後の昭和37年には「猫のいる風景」が、さらにその2年後の昭和39年には「風葬」が芥川賞の候補となるなど、この時代の彼女の文筆活動はまさに順風満帆。そして、彼女の人生の大きなターニングポイントとなる時代でもありました。中央文壇からの熱心な誘いもあり、彼女は愛する八代を離れ、東京へと移住するのです。
 東京は練馬区に住み、凛としたきもの姿で執筆活動をつづける坂口れい子。作家への道を進みはじめ、
「蕃社の譜」、「霧社」など、話題作をつぎつぎと世に問いました。ちなみに言えば、彼女が書くことのつぎに好きだったお花の世界でも、小原流華道正教授の免許を取得していました。
 作家・丹羽文雄は、れい子の作品をこう評します。
 「坂口さんの小説には男の作家がもっている風通しのよさを備えている。文章の歯切れのよさ、よどみのない対象のとらえ方、地味なくらいの大人びた描写力。(中略)……単に聡明な作家というだけではすまされない」
 大正、昭和、平成の3時代を、凛として、そのうえやさしく、とびぬけた才能と感覚で生きる小説家、坂口れい子。人生のほとんどをきもの姿で過ごし、お花を愛しつづける八代出身の女性、坂口れい子。彼女は、そのいたずらっぽい笑顔で私たちにこう語ります。
 「好きなことだけを書き、好きなことだけをして生きてきました。それはいつも、目の前に大きな夢を掲げつづけたからできたこと。八代の女は、強いんですよ」

詩と眞実

文芸雑誌。昭和23年(1958)11月1日創刊。月刊。23年初夏に結成された熊本ペンクラブの会合で計画されたもので、詩名はゲーテの自伝からとられた。

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